古典ミステリの傑作『虚無への供物』中井英夫


「先生、事件です!」

 

 

 私が事件の資料を片手に事務所に駆け込むと、椅子に座って珈琲を飲んでいた男が私に視線を向けた。私はきょとんと目を見開く。

 

 

 それは先生ではない。知らない男だった。長身痩躯の、口元に妖しげな笑みを浮かべている。

 

 

 ロマンスグレーの髪には惑わすような色香を漂わせているが、切れ長の瞳はいっそ獲物を狙う蛇のようだ。

 

 

 「……どちらさまですか?」

 

 

 彼は私の問いには答えず、一層笑みを深めるだけだった。彼は珈琲を一息に飲み干して立ち上がると、私に近づく。

 

 

「まあ、そんなことはどうでもいいではないですか。それより、ねえ、事件が起きたんですよ、ね。それがその事件の資料」

 

 

 彼は放心する私の手から事件の資料をひったくると、ふむふむ、なんてもっともらしく呟きながら目を通し始めた。私が慌てて心を取り戻す。

 

 

 「ちょ、ちょっと! 何、勝手に見ているんですか! 守秘義務なんてのもあるんですから駄目です!」

 

 

 「なあに、被害者からすれば誰が事件を解決するかは関係ありません。ようは事件が解決さえすれば、誰がどのようにしようが気にしないのですよ」

 

 

 まあ、守秘義務だって言うなら口頭で説明をお願いします。証拠が残らないならば事実はなかったも同じですから。彼はそう言って資料を返すと、私に読むように促した。

 

 

 知らない男に不信感はあれど、なぜか彼の言葉には抗いがたい何かがあった。私は背筋に走る悪寒から目をそらすように資料を読み上げる。

 

 

「先日、名家の次男が亡くなりました。発見されたときは、お風呂場で倒れていたようです。施錠されており、侵入経路はなく、彼の身体も弱かったことから病気であろうと判断されました」

 

 

 ふむ、それで。彼は続けるように言う。まるでこれだけで終わった事件ではないだろう、とでも言うように。

 

 

「現場には、ただ病気に倒れたと言うには不自然な点がたくさんあったのです」

 

 

 身体に刻まれた赤い十字架。事件現場に突如として現れた毬。事件直前の被害者の奇妙な行動。そして、名家にまつわる忌まわしき因縁。

 

 

「これは何者かの意図したものではないのか、と考えた方から当事務所に依頼してきた、というわけです」

 

 

「なるほど、では行きましょうか」

 

 

 男は明るい口調でそう言うと、整えられたスーツをまとった。

 

 

「え、でも、行くって、どこに?」

 

 

「事件は解決しましたから、ね。今から犯人を捕らえに行くのです」

 

 

 彼の言葉に、私は目を見開いた。その表情は相変わらず軽薄な笑みが浮かべられていて、嘘を言っているようにも思えない。

 

 

「ああ、そうだ。はい、これ」

 

 

 彼が差し出してきたのは一冊の本だった。私は放心したまま思わず受け取る。『虚無への供物』と書かれていた。

 

 

「差し上げます。では、行きましょうか」

 

 

 男は胡散臭い笑みを浮かべた。

 

 

推理小説名さながらに演じるメタ・ミステリ

 

「さて、君は今回の事件、どう思う?」

 

 

「え? わ、私ですか」

 

 

 え、えっとぉ……。私は突然、彼から聞かれて混乱した。真相を解くのはいつも先生の仕事であって、私はそれを見ているだけだった。

 

 

「私は彼が怪しいと思っているんですよ」

 

 

「彼って、誰のことですか?」

 

 

 あはは、やだなあ、決まっているでしょう、そんなの。男はにやにやと妖しく笑っている。

 

 

「今、この文章を書いている人のことですよ」

 

 

 私は彼が何を言っているのかわからなかった。思わず首を傾げる。この文章を書いている人、とはどういうことか。しかし、私の困惑をよそに彼は続けた。

 

 

「推理小説というのは、ひとりの人物が事件を起こすことがきっかけで始まります」

 

 

 しかし、考えてみてください。彼らは犯人役の犯行が起こる前からすでに描写として倒れているのです。作者の物語を紡ぐ手によって、ね。

 

 

「つまり、あらゆるミステリ作家は言葉によって事件を起こす犯人とも言えるのですよ」

 

 

 彼が言うことを少しも理解できなかったのは私の理解力がないわけではないだろう。この男はおかしい。私は確信を得た。

 

 

「……それが今回の事件の犯人、ということですか?」

 

 

 私がおそるおそる聞いてみると、彼はさあと肩を竦めた。私はこれほど人の笑顔に腹立ったことはない。

 

 

「気になるならたしかめればいい話、じゃないですか」

 

 

「たしかめる?」

 

 

 彼は私の手に抱えられている本を指差した。

 

 

「そこにあるでしょう、ねえ」

 

 

 彼はからかうように笑みを浮かべた。

 

 

幻想的な雰囲気で進んでいくアンチ・ミステリ

 

 一九五四年はことさらに凄惨な事件が起こる年であった。

 

 

 洞爺丸の転覆により、氷沼家の家長と奥方が亡くなったことは記憶に新しい。新しく家長となった氷沼蒼司と高校時代に親交があった光田亜利夫は彼のもとを訪ねる。

 

 

 しかし、その背後に彼の友人である奈々村久生の思惑があったことを知るのは当人たちばかりである。

 

 

 久生の婚約者は牟礼田俊夫といって、氷沼家の遠縁にあたる人物だった。彼が氷沼家に巻き起こる陰惨な事件が起こると予言したのである。

 

 

 亜利夫が氷沼家を訪れたのはその調査のためであった。

 

 

 氷沼家にいるのは氷沼家の蒼司、紅司、藍司。叔父の橙二郎。家老的な立ち位置にいる藤木田老人。使用人の爺や。そして、番頭代わりの八田である。

 

 

 しかし、ここで事件が起こるとは亜利夫自身思っていなかった。あくまで彼は、久生の探偵ごっこに付き合うワトスンの心積もりだったのだ。

 

 

 実際に、ひとりが無残な人生の終局を迎えるまでは。

 

 

 紅司は心臓の弱い男であった。彼が施錠された風呂場の密室に倒れていたとしても、やがて訪れるであろう未来がとうとう来てしまった、程度であろう。

 

 

 しかし、前夜から運命の時までの数時間の前後は、偶然で片づけるには難しい、あまりにも不可解な事象が多かった。

 

 

 事件前夜の紅司の奇妙な言動。彼の身体に刻まれた忌まわしき十字の蚯蚓腫れ。突如として事件現場に現れた赤い毬。事件後の橙二郎と爺やの奇行。

 

 

 ゲイバー”アラビク”に集う四人の探偵。氷沼家の事件を巡る四種四様の推理劇。真実を射抜くのは誰か。氷沼家の悲劇を止めることはできるのか。

 

 

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