生きることの美しさ『風立ちぬ・美しい村』堀辰雄


 私は柔らかい布団に寝そべって白い天井を見つめていた。もうすでに見慣れたその天井は私の世界のほとんどを占めている。

 

 

 私の世界は色がなく真っ白で、どこか気分の悪くなる香りが立ち込めていた。それは汚濁の許されない、不気味なほどの清潔の世界だ。

 

 

 そのくせ、この場所にいることを強いられている私自身が汚れているのだから皮肉なものである。

 

 

 私の進む道に先はない。その先にあるのはただの喪失、それだけだ。そこにはきっと真っ暗で、私すらもいないのだろう。

 

 

 私の身体の中に入る悪魔はひどく強欲である。私の人生のすべてをことごとく奪っていく。いっそのこと、終わりにしてくれれば楽であるのに。

 

 

 生まれた時から私の世界は何を描かれていないカンバスのままだった。そして、人生は私に色を乗せることすら許してはくれない。

 

 

 動こうとすれば止められる。看護婦は白衣を着た監視者のようなものだ。彼女たちはいつも私が逃げ出さないか見張っている。

 

 

 そんなわけで、いよいよ私のできることは限られていく。こうしてベッドに横になって思索を巡らすしかないわけだ。

 

 

 そんな時に何を思うかと言えば、今の私に一番近しい問題についてのことだ。すなわち、生きることについてである。

 

 

 私の人生は何のためにあるのか。私が今までしてきたことはただ生まれて、ただ終わることだけだ。その不毛な行為を続けることに何の意味があるのか。

 

 

 答えが出ないことはわかっている。そこに答えを出すかどうかはその人自身の自由だ。だからこそ、この思索は最高の暇つぶしになる。

 

 

 そして、思索にも飽きれば、疲労した頭の疲れを癒すために眠りにつく。二度と起きない恐怖に体を震わせながら。

 

 

 しかし、今日の私は新しい時間を手に入れている。机の上に置いてある本を用意したのだ。というよりも、用意してもらった。

 

 

 退屈だとわがままを言ったら、兄が持ってきてくれた。『風立ちぬ』という作品だ。なんでも、一時期話題になったらしい。

 

 

 まあ、つまらなくても別に良かった。なにせ、時間はそれこそ生きている間は飽きるほどあるのだから。

 

 

この美しい人生を

 

 私は本を閉じた。物語の余韻に包まれて、しばらくの間、私はそのまま茫然としていた。

 

 

 節子のことを、私は羨ましく思う。彼女のような身の上で満足しているなんて、私には到底言えないだろう。

 

 

 彼女は自分の人生に本当に満足していたのだ。彼女は弱った身体を抱えて、自分の人生を全力で生きて終わりを迎えた。

 

 

 「私」は彼女の魂を通して世界を見た。その美しい光景は、私の胸にもありありと刻まれているかのようだった。

 

 

 世界は美しい。しかし、その鮮烈な美しさに気づくことができる人は、きっと少ないのだろう。

 

 

 私はこの場所を牢だと思っていた。世界と私を隔てる鉄格子がこの白い壁であり、看護婦たちは看守である、と。

 

 

 私にとっての人生はもう消費していくだけの時間だった。意味のない時間が過ぎていき、そうしてやがて静かに終わる。それだけ。

 

 

 しかし、節子の生き様を見た後では、私はもう、そんなことを思えなかった。私も彼女のように美しい人生を生きてみたくなったのだ。

 

 

 私は窓の外を見た。私が今まで、ある種の別世界として眺めていた光景がそこには広がっている。

 

 

 青々と茂る草木。車椅子に座ってゆったりと妻に押されながら語り合う老人。地平線の陰に沈みゆく橙色の夕日。

 

 

 風立ちぬ。いざ、生きめやも。私は口の中で呟いてみる。

 

 

 世界は美しい。そして、その世界に生きる私の人生も、こんなに美しいのだ。私の髪を、柔らかく吹いた風がそっと揺らした。

 

 

生きることの美しさに気づかせてくれる恋愛小説

 

 夏の日々、一面に薄の生い茂った草原で、お前が立ったまま絵を描いていると、私はいつも白樺の木陰に身を横たえていたものだった。

 

 

 そんな秋近い日のある午後、私たちが描きかけの絵を画架に立てかけたまま木陰で果実を齧っていると、何かがばったりと倒れる物音を耳にした。

 

 

 私たちがそこに置きっぱなしにしていた絵が画架とともに倒れた音らしかった。すぐ立ち上がっていこうとするお前を、私は無理に引き留めていた。

 

 

 風立ちぬ、いざ生きめやも。

 

 

 ふとそんな詩句を、私はおまえの肩に手を掛けながら口の中で繰り返していた。お前は私を振りほどいて立ち上がると、やっとカンバスを立て直しに行った。

 

 

 ある夕方、私は食堂で、お前が迎えに来た父と食事を共にしているのを見出した。お前の様子や動作は、私についぞ見かけたこともないような若い娘のように感じさせた。

 

 

 その晩、私はひとりで出ていった散歩から帰ってきても、しばらく人気のない庭をぶらぶらしていた。ホテルのひとつの窓が開いて、若い娘が窓の縁に寄りかかる。それはお前だった。

 

 

 お前たちが発った後、日ごと日ごと私の胸を締め付けていた、悲しみに似たような幸福の雰囲気を、私はいまだに蘇らせることができる。

 

 

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