人間のことがわからない苦悩『人間失格』太宰治


 私は本を読むふりをしながら教室で騒ぎ立てる同級の輩を冷ややかな視線で見つめる。彼らの間抜けさ加減には呆れるばかりである。

 

 

 高校生にもなって、よくもあれほど喧しくはしゃげるものだ。小学生でももう少し落ち着いているだろう。

 

 

 そんな侮蔑を込めて岩山の猿どもを眺めるように俯瞰していると、一団のひとりがこちらに視線を向けた。私はびくっと肩を震わせる。

 

 

 彼女が隣にいる女生徒と何やら小声で囁き合ってくすくす笑っている。私を笑っているのだろうか。私の胸中に不安が沸き起こってくる。

 

 

 自分に何かおかしなことがあるのだろうか。顔が熱くなってくるのを感じた。身体中に変な汗が出てくる。目を向ければ視線が合いそうで、でもそれが嫌で、私は視線をそらし続けていた。

 

 

 笑い声が聞こえる。彼女たちだけではない。あのグループの男子もにやにや笑っている。

 

 

 きっと、私のことを笑っているに違いない。どいつもこいつも私のことを陰でひそかに笑っているのだ。

 

 

 私はじっと俯いて、本の文字を揺れる瞳で眺め続けていた。もう目を上げることはできなかった。

 

 

 この教室にいる全員が私を嘲笑っていて、顔を上げれば途端にどっと笑われるものだと思っていた。

 

 

 そう思っているうちに、私の胸には漠然とした恐怖が怪物のように忍び寄っていた。それは私が少しでも隙を見せれば、あっという間に食らいついて私の骨までしゃぶるのだろう。

 

 

 私は恐怖に追われるように席を立つ。思いのほかガタッと大きな音が教室に響いた。教室中の視線が一瞬私に集まり、また頬が熱くなる。

 

 

 私は逃げるように教室を飛び出して、トイレの個室に飛び込んだ。洋式トイレに座り込み、はあとため息をひとつ零した。

 

 

 あ。私は自分の手元を見て思わず声を上げた。読んでいた本をうっかり持ってきてしまった。ああ、またおかしな奴だと思われてしまうだろうか。心中にまた憂鬱が去来する。

 

 

 太宰治の『人間失格』。大庭葉蔵はまるで私の心を映す鏡のようだった。しかし、私は到底、彼のような道化にはなれないのだ。

 

 

人間とは何か?

 

 人間にはどうして心があるのだろう。心なんてなければ、こんなに苦しい思いをすることもなかったのに。

 

 

 私は学校に屋上で寝そべりながら、空を見つめてそんなことを考えていた。校庭からは部活に勤しむ野球部の張り上げた声が響いている。

 

 

 小学生の時はなんとも気楽で楽しいものだった。何も考えず、友達とわいわい遊んでいればよかった。

 

 

 それが中学生の時に何かがおかしくなったのだ。具体的に何かはわからないけど、何かが変わってしまったのはたしかだった。

 

 

 高校生の時にもなると、それはより顕著になった。もう私はクラスメイトたちと上手く話せなくなっていた。

 

 

 顔に熱が灯る。声が出なくなる。舌がもつれる。身体が震える。変な汗が湧き出てくる。頭が回らなくなる。相手の顔を直視できなくなる。

 

 

 昔は何も思わなくてもできていたことが、今ではどんなことよりも難しい。子どもの頃は幸せだった。それを知ったのは大きくなってからだった。

 

 

 いつの間にか自分と他人との間には埋めようのない隔絶が生まれていた。私はそこをどうやったら越えられるのかわからない。

 

 

 私は愛読している本のタイトルを思い出す。きっと、私もまた、人間として失格なのだろう。

 

 

 私は立ち上がり、屋上の柵から校庭を見つめた。豆粒みたいな彼らとの距離は、そのまま私と彼らとの距離だった。

 

 

 私と人間との間には柵がある。あるいは、この柵を乗り越えて、この大空へ羽ばたけたのなら、私は人間になれるのだろうか。

 

 

 時計の針が動いてチャイムが鳴り響く。校内放送を聞きながら、私は柵に手をかけた。

 

 

人間に馴染めないひとりの男の生涯

 

 恥の多い生涯を送って来ました。

 

 

 自分には人間の生活というものが、見当がつかないのです。

 

 

 自分は停車場のブリッジを複雑に楽しく、ハイカラにするためにのみ設備されており、線路を越えるために造られたものだということに気づいていませんでした。

 

 

 また、地下鉄道も、地上の車に乗るよりは、地下の車に乗った方が面白い遊びだからと思っておりました。

 

 

 寝ながら敷布や枕のカヴァーをつまらない装飾だと思っていました。それが実用品だと知った時、悲しい想いをしたことを覚えています。

 

 

 また、自分は空腹を知りませんでした。自分には空腹という感覚はどんなものだか、さっぱりわからなかったのです。

 

 

 つまり、自分は人間の営みというものが何もわかっていないのです。隣人の苦しみの性質、程度がまるで見当つかないのです。

 

 

 そこで、自分が考え出したのは、道化でした。自分はいつの間にか誰に対しても本当のことを言わない子になっていたのです。

 

 

 なんでもいいから笑わせておけばいいのだ。とにかく彼らの目障りになってはいけない。

 

 

 自分はお道化によって家族を笑わせ、必死のお道化のサーヴィスをしていました。道化は自分の、人間に対する最後の求愛だったのです。

 

 

 絶えず笑顔を作りながらも、内心は必死の、油汗流してのサーヴィスでした。自分は道化の一線でわずかに人間と繋がることができたのです。

 

 

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