自分のついた嘘に溺れた少女の末路『少女地獄』夢野久作


「『少女地獄』という小説を読んだことがありますか?」

 

 

 彼女が身を乗り出すように机にかじりつき、私に強く語りかけてきた。大きな目が爛々と輝いている。

 

 

「はて……『絶望先生』のオープニングか何かかな」

 

 

「違いますよ!」

 

 

 彼女はバンと強くテーブルを叩いた。隅に置かれた珈琲に波紋が浮かび、店内の客の視線が一斉にこっちを向く。

 

 

 さすがに恥ずかしかったのだろう、俯いて顔を赤くする彼女に代わり、迷惑そうに睨みつける客と店員に私が頭を下げると、彼らは何事もなかったかのように視線を外した。

 

 

「はあ……それで? 君の言う『少女地獄』が何だね?」

 

 

「いえ、その、面白いので読んでいただければ、と」

 

 

「ふむ」

 

 

 彼女がそこまで強く主張するのは珍しい。変人ではあるが、平生は温厚な娘である。私はその小説に少し興味を惹かれた。

 

 

「誰の作品なんだね?」

 

 

「よくぞ聞いてくれました! 夢野久作先生です」

 

 

「夢野久作といえば、『ドグラ・マグラ』の作者だったっけね」

 

 

 彼女はこくこくと勢いよく頷く。

 

 

「『ドグラ・マグラ』の印象が強すぎるせいでおかしな作家だと思われがちですが、実際には詩や短歌に長けた多彩な人物です」

 

 

 日本文学界の巨匠、江戸川乱歩先生にも激賞を受けるほどの優秀な作家さんで、幻想的、怪奇的な作品を得意としていたそうです。『ドグラ・マグラ』はその代表でしょうね。

 

 

 彼女はつらつらと講釈を垂れた。

 

 

「ならどうして『ドグラ・マグラ』じゃあなくて『少女地獄』なんだ?」

 

 

「『ドグラ・マグラ』はあまりに有名ですから読んだことがある人も多いです。でも、夢野久作先生自身に興味を持っている人って多くありません」

 

 

 私は先生自身を好きになってもらいたいんです。彼女はどこか寂しげに語った。まあ、私の思いつく彼女の身近にも、作者に興味を持つような者は少なかろう。

 

 

「夢野久作先生って書簡形式、えっと、手紙とか文章とかを作品に挿入するのがすっごく上手いんです。その作品の中でも『少女地獄』は面白かったんですよ」

 

 

「なるほどな」

 

 

「興味持ってくれました?」

 

 

 ああ、読んでみるよ。私が頷くと、彼女は嬉しそうに飛び跳ねたものだから、私はまた店内に謝る羽目になってしまった。

 

 

 帰りに、本屋で私は彼女に言われた通り、『少女地獄』を買ってみる。ページを開くと、そこには読んだ者を逃さない、魅力の無間地獄が広がっていた。

 

 

虚構の世界に

 

「ね、面白かったでしょ」

 

 

 彼女は私に向かって自慢げに胸を張る。彼女の思惑通りになったのはどこか口惜しいが、実際に面白かったために、私は頷いた。

 

 

「ええ、ええ、そうでしょう、そうでしょう。私の見立てに外れはありませんからね」

 

 

 あなたの好みなんてお見通しなんですよ。なるほど、たしかに彼女の勧めてくれる作品は私のツボをばっちり押さえていた。

 

 

 『少女地獄』はどこか感じ入るところがあるような作品であった。地獄に呑まれていくような不安感があった。

 

 

 自分の吐いた嘘に振り回されて、ついには悲痛な末路を迎えることとなった彼女は、まるで読者である私に警告を発しているかのようだった。

 

 

 嘘を吐くことは悪いことである。そんなことは周知であろう。しかし、悪いことだという自覚を持っていても私たちは、どんな聖人君子であれ嘘を吐くことをやめられない。

 

 

 彼女の嘘は多くの人を引き寄せる魔性を持っていた。しかし、その嘘は彼女の周りを、そして彼女自身を破滅に追いやる甘露であった。

 

 

「私は姫草ユリ子には同情するよ。彼女は現実から逃げなければいけなかったからこそ嘘を吐いていたんだ」

 

 

 彼女にとっては現実で生きることは地獄だった。彼女にとっての天国は空想の世界という箱庭の中だけだったんだ。

 

 

「でも、その天国を壊すきっかけは彼女自身が原因ではないですか。自業自得ですよ」

 

 

「彼女はたしかに種を撒いたかもしれない。しかし、その破滅の引き金を引いたのは白杵先生の一言だということを忘れてはならないだろう」

 

 

 いたずらに彼女の空想に土足で入り込んで、嘘を吐かれていたことに失望をする白杵先生は平穏な彼女の世界を壊した侵略者に等しい。

 

 

 彼女は釈然としない表情をしている。正義感の強い彼女にとって、嘘を吐いてこれだけ多くの人を迷惑に陥れることは悪なのだろう。

 

 

「嘘は悪で、真実は正義だ。しかし、正義がすべてではないのだよ。この作品だって、正義感がひとりの破滅を招いた典型じゃないか」

 

 

 嘘を暴くことさえしなければ、姫草ユリ子は天才的な才能を持った看護婦でいられたのだ。それが、嘘を暴いたからこそ彼女はただの嘘吐きになってしまった。

 

 

「彼女はただ迷惑ばかりをかけていたわけではない。老若男女問わず好かれる彼女の人徳と才能は嘘ではないのだ。彼女がいなくなった後も彼女を求める人が多いことからもわかるだろう」

 

 

 嘘吐きという一面ばかりを見るから悪に見える。しかし、人間は多面的な存在だ。正義も見方を変えれば悪になる。

 

 

「お前だってそうじゃあないか。私から見れば、お前は生意気な小娘だが、他の人から見れば」

 

 

 私は店内に視線を這わせた。こちらをちらちらと怪訝そうに見ていた客たちが私から目をそらす。

 

 

 再び視線を戻すと、彼女の姿はなくなっていた。減っていない二人分の珈琲が湯気を吐き出している。他の人から見れば、お前はただの私の妄想にすぎない。

 

 

「ほらな。空想の世界を壊すべきではないだろう?」

 

 

嘘に魅入られた少女の虚構の世界

 

 姫草ユリ子が私の病院に来たのは昭和八年五月三十一日、開業の前日の夕方であった。

 

 

「コチラ様では、もしや看護婦が御入用ではございませんかしら」

 

 

 私はちょうど、姉と、妻の松子と話し合っていたところだった。二人雇っていた看護婦では手が足りないのではと懸念していたのである。

 

 

 面会してみると、私も妻も姉も、彼女の無邪気な態度と、澄んだ清らかな瞳と、いじらしい態度、健気な痛々しい運命に衷心から吸い付けられてしまっていた。

 

 

 彼女の看護婦としての腕前は申し分ないどころの騒ぎではなかった。彼女は患者の状態に対する鋭敏さを持っており、男女、老幼問わず好かれるようになった。

 

 

 おかげで、彼女をマネキン兼マスコットとして、彼女を求める患者の来訪によって私の患者は激増し、私の開業は非常に恵まれた状態から始まることとなった。

 

 

 しかし、ちょうどその最中に、奇妙とも不思議とも、たとえようのない事件が彼女を中心に巻き起こって、遂に破局に至ったのであった。

 

 

 しかも、その破局の種は彼女自身が撒いたもので、彼女が私のところにころがりこんだ一問一答の中に、その種が蒔かれていたのだった。

 

 

 彼女の異常な天才が私の家族を悪夢の中に陥れ始めた原因というのは、彼女自身も気づかなかったであろう、極めて些細な出来事からだった。

 

 

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