頭の良さではわからない真実『アルジャーノンに花束を』ダニエル・キイス


 幼い頃の私が愚鈍であったことを、私の今の姿から想像することは到底できないだろう。

 

 

 私は背筋を伸ばし、たしかな足取りで壇上へと上がる。轟雷のような拍手の嵐の中で、私は会場を見回した。

 

 

 司会を務めている男の声に従って、目も眩むような美女が金色の輝きを私に差し出してくる。私はそれを厳かに受け取った。

 

 

 とんだ茶番だ。まるで宗教画のようだな。受け取りながら、腹の内で私は吐き捨てるようにそんなことを考えていた。

 

 

 私の手の中に納まる小さな金色は名誉ある賞なるものらしい。今すぐにでも強く床に叩きつけてしまえば、彼らはどんな顔をするだろうか。

 

 

 私は頬が引き攣らんばかりの笑顔を浮かべている。その事実があまりにも我慢ならず、仮面の下で私は苦虫をかみつぶしていた。

 

 

 壇上から会場を見下ろすと、学会を代表する偉そうな学者たちが私を見上げていた。

 

 

 彼らはかつて私を蔑んだ者たちだ。しかし、そんな彼らは私が見つけ出した簡単な理論にすらも気づかない。

 

 

 今ここにいる人間は、みな私よりも愚鈍である。このマイクに向かって吐き捨てるように言い放てば、彼らはどんな顔をするだろう。

 

 

 しかし、私は簡単な挨拶ときれいごとで塗り固めた美辞麗句だけを残して、壇上を降りた。

 

 

 降りていく途中、私はふと、それと目が合った。私の呼吸が苦しくなり、胸が痛くなる。

 

 

 思わず私は胸を押さえた。鼓動がかつてないほど早い。気持ち悪い脂汗が額に浮かぶ。

 

 

 それは幼い頃の、誰からも馬鹿にされていた私だった。幼い私はこの場で誰よりも高みに立っているはずの私を、じっと蔑んだ目で見下していた。

 

 

賢くないからこそ見える大切なもの

 

 幼い頃の私は他の子たちよりもひときわ頭の成長が遅かった。言葉を覚えるのも遅れていたという。

 

 

 そんな私を周りの同年代の同輩たちはこぞっていじめていた。泥をぶつけられたり笑われたりなんぞは日常茶飯事であった。

 

 

 しかし、私はいつも笑っていて、彼らとともにいた。自分が劣っていることも自覚があったし、彼らとともにいたかったからだ。

 

 

 その望みは結局、叶うことはなかった。私と彼らの住む場所は、互いにすれ違ったままだった。

 

 

 みんなと同じように賢くなりたかった私は必死に勉強した。勉強して、勉強して、一心不乱に勉強した。

 

 

 だからこそ、私は気がつかなかったのだ。いつの間にか、私が並びたかった彼らを追い越してしまったことに。

 

 

 私は彼らを友人とは思わなくなっていた。彼らは私が知っていることの多くを知らないのだ。私の話に、彼らはついていけなくなっていた。

 

 

 かつての笑っていた自分はいなくなっていた。私は私自身を笑う側になっていたのだ。知能の低さを笑う傲慢に。

 

 

 ダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』という小説を思い出した。チャーリイが幼い頃の私の隣に並ぶ。

 

 

 最初はひらがなの拙い文章で書かれていた実験の経過報告が、徐々に難しい単語が使われ始めて、最後にはまた拙い文章に戻るという構成が印象的な作品だった。

 

 

 初めて読んだ頃、私はその物語の意味がいまいち理解できなかった。しかし、今ならばわかる。

 

 

 私たちは知恵に重きを置いている。賢い人間は社会を自分の好きなように動かして、賢くない人間は蔑まれながら動かされる駒のひとつに過ぎない。

 

 

 そう、駒なのだ。私たちは知恵に重きを置くあまり、知恵のない存在もまた、人間であることを忘れてしまう。獣を下等種族として見下すように。

 

 

 賢い人間が他者を見下す傾向にあるのも、知力の高さが社会的優位な立場に自分を押し上げているからだ。

 

 

 しかし、賢さだけに重きを置いた人間は、代償として常に孤独であることを強いられる。

 

 

 彼らは優れた人間が知恵だけではなく人格を備えていることを理解できないのだ。なぜなら、人格は他人を見下すことの対極にあるからである。

 

 

 知識を求める心が愛情を求める心を排除する。なるほど、チャーリイの出した答えは得てして妙であろう。

 

 

 彼はかつて愛情に溢れた人間であった。しかし、彼は愛情を与えることはできたが、愛情を受けることができなかった。

 

 

 だから、彼は愛情を求めたがゆえに知識を求めた。知識を得れば愛情を得られると考えたからだ。

 

 

 しかし、結果として彼は知識の代償として愛情を失った。持っていたはずの愛情がなくなり、愛情を与えられなくなった彼は見放されたのだ。

 

 

 知識は合理を追求する。しかし、愛情ほど非合理なものはないだろう。両者は対立の関係にあるのだ。

 

 

 知識を得る代償は孤独だ。賢さという高みは自分だけを誰もいない高みへと持ち上げる。

 

 

「僕はたしかに賢くなったね。でも、僕は君のようにはなりたくないよ」

 

 

 幼い私が、蔑んだ瞳で私に言った。私が賢くなかったならば、その視線もすぐに忘れることができるだろうに。

 

 

幼児並みの知能を持つ青年が天才になったことで知った世界

 

 32歳になっても幼児並みの知能しかない青年チャーリイは愛嬌に溢れた穏やかな性格で、心優しい人物であった。

 

 

 彼はその知能の未発達を笑われており、馬鹿にされていた。しかし、彼は彼らのからかいすらも憎く思わず、ただ心もとなく穏やかに微笑んでいた。

 

 

 しかし、いっしょに微笑みながらも、彼は内心では賢くなって周りの人たちと対等になれることを夢見ていた。

 

 

 そんな理由もあって、彼は叔父の知り合いのパン屋で働きながら、専門の学習クラスで誰よりもがんばって勉強していた。

 

 

 そんな彼の涙ぐましい努力を見ていた担任の大学教授アリス・キニアンは、彼に新しく開発されたばかりの脳手術を受けてみるよう勧める。

 

 

 賢くなることに憧れていた彼は手術を受けることを決意し、前例がないこの画期的な手術の、人間に対する臨床実験の最初の被験体に選ばれたのだった。

 

 

 すでに彼と同じ手術を受けた白ネズミのアルジャーノンはネズミとしては驚くほど優れた思考力や記憶力を得ている。

 

 

 チャーリイはアルジャーノンと迷路実験で競争し、敗北した。以来、アルジャーノンはチャーリイの競争相手となった。自分も彼と同じように賢くなれるだろうか。

 

 

 彼の胸に抱いた無邪気で切実な期待は度重なる実験の末に叶えられることとなる。代わりに、多くの代償を彼の背に背負わせて。

 

 

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