お姉さんの正体『ペンギン・ハイウェイ』森見登美彦


 世の中には、まだまだ私の知らないたくさんのことがある。私は目の前をよちよちと歩いているペンギンを見てそう思った。

 

 

 黒と白のまるまるとした愛らしいフォルムに、水かきのついた短い足。それは、小さい頃に絵本や動物園で見たことがある姿だった。

 

 

 私は思わず呆気に取られる。ここは南極ではないし、動物園の檻の中でもない。私が住むマンションの一室だ。しかも、茹だるような暑い夏時である。

 

 

 大家さんに怒られる。混乱する頭の片隅で私はそんなことを思った。ここはペット禁止のマンションだ。家の中にペンギンがうろついているなんて冗談ではない。

 

 

 でも、一番戸惑っているのは私だった。なにせ、いつものように起きて朝食を用意するためにリビングに行くと、ペンギンが歩いていたのだから。

 

 

 私は頬をつねってみる。ちくっとした痛みが私を刺した。ペンギンは消えていない。夢ではないか、それとも私があまりにもリアルな夢を見ているかのどちらか。

 

 

 私が内心びくびくしながらペンギンの前に立っても、ペンギンはきょとんとした瞳で私を見つめるばかりで、逃げようともしない。

 

 

 私がおそるおそるペンギンの身体に触れると、人肌よりも温かいふんわりとした柔らかさが私の指をもふもふと跳ね返した。

 

 

 私はこれまで自分が賢いという自負を持っていた。しかし、ペンギンがここにいる謎の正体はさっぱり見当がつかない。

 

 

 それは私が今まで生きてきて大人になったという自負を壊してしまった。しかし、私がどこかでそれを喜んでいた。

 

 

 淡々と空虚な仕事を続ける日々に面白みはなかった。娘の想像もできない素っ頓狂な行動を眺めることだけが私の癒しだった。

 

 

 突然、部屋の中にペンギンが現れるという非日常に、私の心は否応なく高揚した。まるで子どもの頃に戻ったかのようだった。

 

 

 好奇心が私の胸に溢れてくる。目の前に吊るされたペンギンという謎を解き明かしてみたいと私は考えた。

 

 

 まるで『ペンギン・ハイウェイ』みたいだと思った。最近、読んでいた森見登美彦先生の小説をぼんやりと思い出していた。

 

 

 日常の中に突然現れる非日常。それでも世界は回っている。人々の好奇心をつっつきながら、非日常は次第に広がっていくのだ。

 

 

 やがて、それが世界を呑み込んでしまったら、いったいどうなってしまうのだろう。

 

 

 もしも世界中にペンギンが溢れたら。きっと動物図鑑は何の役にも立たなくなる。偉い学者はこぞって頭を抱えるだろう。

 

 

 でも、きっと、その世界は黒と白のまるまるとした世界だ。今よりもきゅうきゅう騒がしくて、そしてきっとかわいい世界になるだろうね。

 

 

 それはとても心が躍る想像だった。

 

 

子どもというファンタジー

 

 ペンギンがどこから来たのか。その真相は私が娘の様子を見に部屋に入った時にわかった。

 

 

 まだ四歳の娘は先日買ってあげたらくがき帳に向かってクレヨンを手にご機嫌な様子で何かを描いていた。

 

 

 黒いクレヨンをぎゅっと握って描いているのはペンギンである。まるまると太ったかわいらしいペンギン。

 

 

 すると、次の瞬間、らくがき帳のペンギンの絵から抜け出そうとするようにペンギンのくちばしが飛び出して、そのまま部屋の中へと全身を現した。

 

 

 目を見開いて驚く私をしり目に、ペンギンはよちよちと私の隣を歩いていく。娘はその背中を楽しげに見つめながら、次のイラストに手を掛けていた。

 

 

 ペンギンは娘が描いたイラストだった。しかも、それだけではなかった。

 

 

 娘が花を描けば、部屋に花が咲き乱れる。かわいらしい猫を描けば、猫がにゃあと鳴いて机の上に飛び乗る。お姫様を描けば、娘が着ているパジャマが瞬く間にドレスに変わった。

 

 

 そんな不思議な光景であるのに、娘はちっとも不思議だとは思っていないようだった。ただ自分の気の向くままにクレヨンを走らせている。

 

 

 ふと、娘が私に気づいたのか、私を見てぱあっと笑顔を咲かせた。すると、部屋の中にあった動物や花は消えてしまって、いつもの部屋に戻る。

 

 

「見て見て、お母さん! お絵描きしたの!」

 

 

 これが猫で、これがお花で、と娘は私にらくがき帳を見せながら説明してくれる。私が上手ねというと、娘は嬉しそうに笑った。

 

 

 さっきの光景は何だったのだろう。私は内心で首を傾げる。

 

 

 でね、これがペンギンさん。娘が見せてくるペンギンはあの部屋で見たペンギンとよく似ていた。

 

 

 私はその丸い身体を見ていて、ふと思った。あれは娘の目から見た世界だったのかもしれない。

 

 

 子どもというのは不思議なものだ。彼らの中ではファンタジーが当たり前のように存在していて、何気ない日常の中にペンギンやお姫様がいる。

 

 

 私たちは大人になっていくにつれて、次第にそれらがいないということを知って、知識をつけていく。

 

 

 でも、実は子どもたちこそがその純真な目で真実を見ている、ということもできるのではないか。

 

 

 私たちの濁った瞳では見えないだけで、彼らの目には私たちには信じられないような不思議なことが起こっている。

 

 

 でも、私たちにはそれが見えていないものだから、子どもがそんなことを教えようとしても信じない。笑うか、否定するかだ。

 

 

 子どもはそんな反応を見て、見てはいけないものなんだと思い、見ないようになる。そうして本当に見えなくなってしまう。

 

 

 私たちは成長して、勉強して、自分が賢くなったと思っている。でも、そうではないのかも。

 

 

 幼い頃に見た私のペンギンは、もう南極の遠いところに行ってしまった。手を伸ばしても届かないところへ。

 

 

突然街に現れたペンギンの謎を解き明かすSF

 

 ぼくはたいへん頭が良く、しかも努力を怠らずに勉強するのである。ぼくはまだ小学校の四年生だが、もう大人に負けないほどいろいろなことを知っている。

 

 

 知りたいことはたくさんある。宇宙のことに興味があるし、生き物や、海や。ロボットにも興味がある。歴史も好きだし、えらい人の伝記とかを読むのも好きだ。

 

 

 ぼくが住んでいるのは、郊外の街である。丘がなだらかに続いて、小さな家がたくさんある。

 

 

 県境の向こうにある街から引っ越してきたのは、ぼくが七歳と九か月の時だ。その頃は今よりも家が少なかった。

 

 

 でも今、街はずっと明るくなった。おいしいパンのある喫茶店「海辺のカフェ」ができ、きれいなお姉さんが働く歯科医院もできた。

 

 

 妹を連れて家を出たのは七時三十五分である。七時四十分、公園の前に近所の子どもたちが集まって、住宅地を抜けていく。

 

 

 登校している間も、妹はずっとにぎやかである。なんにでも平気で口を出すのだ。

 

 

 そのとき、先頭を歩く六年生が「あれ」と声を上げ、班のみんなが立ち止まった。

 

 

 歯科医院を過ぎた左手には、車道に面して空き地が広がっている。大勢の子どもたちが息を呑んで、空き地の向こうを見つめていた。

 

 

 風が吹き渡ると、朝露に濡れた草がきらきら光った。広々とした空き地の真ん中にペンギンがたくさんいて、よちよち歩きまわっている。

 

 

 なぜぼくらの街に、ペンギンがいるのかわからない。子どもたちはだれ一人、身動きしない。

 

 

 やがて、近所の大人たちが子どもたちを追い立てた。大勢の大人たちはペンギンの群れを前にして、先ほどの子どもたちのように呆然として立っていた。

 

 

 あとから調べてみると、それはアデリー・ペンギンだった。南極とその周辺の島々に生息していると本には書いてあった。郊外の住宅地には生息していない。

 

 

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