狐の少年と異能の少女の切ない恋『狐笛のかなた』上橋菜穂子


 人間とはつくづく不思議なものである。こうして人間の姿で世の中に溶け込んでいると、強くそう思う。

 

 

「すみません、すみません」

 

 

 リードに繋がれた犬から激しく吠えられる。私に噛みつこうと牙を剥いてくる犬を、飼い主が必死に謝りながら止めていた。

 

 

 犬や猫は鋭い。彼らは人間と違って姿や性格とは違うところで判断している。だからこそ、人間は簡単に偽ることができても、動物にはばれてしまう。

 

 

 恐縮そうに謝り倒す飼い主に、私はいいんですよと手で伝えて足早にその場を立ち去った。私は犬が苦手である。

 

 

 しかし、そうも言ってられない事情が出来てしまったために、私は今まで逃げ続けていた犬と相対さなければならないことになってしまった。

 

 

 吠え声が聞こえてくる。獰猛なその声を聞くたびに私の肩は跳ね上がり、身体が震える。恐怖に足がすくみ、嫌な汗が額を伝う。

 

 

 しかし、同時に心のどこかに太陽のように暖かい熱があるのはどうしてだろうか。いつもならば血の気が引くような声なのに、私の顔には熱が灯る。

 

 

「こんにちは」

 

 

「こ、こんにちは」

 

 

 牙を剥いて私に唸る白毛の小さな飼い犬を押しとどめながら、彼が苦笑して挨拶をする。私は上擦ってどもってしまった自分の声に、いっそう顔が熱くなった。

 

 

「今日も元気ですね、シロちゃん」

 

 

 私に向かってキャンキャンと吠えているシロにこんにちはと挨拶をする。うん、本当に元気だな。ちょっと病気にでもならないかな。

 

 

 彼女は私に飛びかかろうとしているが、リードに阻まれて悔しそうにしている。彼女の飼い主がその頭を優しげな手つきで撫でていた。

 

 

「相変わらず、あなたと会うときだけシロはいつもこうなんですよね。よっぽどあなたのことが好きなんですかね」

 

 

「それか、よっぽど私のことが嫌いか、でしょうね」

 

 

 私が苦笑すると彼はいやあすみませんと頭を掻いた。

 

 

 普段はこの子、大人しいんですけど、どういうわけか、あなたにだけはこうなんですよ、とは二回目に会った時の彼の言葉だ。

 

 

 彼はシロの飼い主である青年だった。温和そうな柔らかい表情をして、穏やかな色の瞳を眼鏡の奥へと隠した線の細い男性である。

 

 

 彼との出会いは道端であった。彼の散歩コースに出くわした私に、シロが吠えかかってきたのである。

 

 

 私は小型犬であろうとも等しく苦手だ。びくっと肩を震わせて立ち竦んでいると、牙を剥くシロを必死になだめていた。

 

 

 その時の彼の優しげな笑顔が印象に残っている。その申し訳なさげな苦笑が、どういうわけだか私の心から離れなくなったのだ。

 

 

 最初の出会いはほんの一分もないくらいの短いものだった。それこそ犬に吠えられて謝られたくらいである。そんなことは何度もあった。

 

 

 しかし、彼との出会いだけはなぜか忘れることができなかった。それは今までと同じようでありながら、ちっとも違っていたのである。

 

 

 言うなれば、私は彼に恋をしてしまったようなのだ。

 

 

人を愛した哀しきケモノの話

 

 人間を愛するなんて愚か者のすることだ。かつての私はそんなことを思っていたものである。

 

 

 今では私が他ならぬその愚か者だ。さあ笑うがよい。しかし、私にとっては笑い事ではないのだ。

 

 

 昔からある童話に『人魚姫』なるものがある。人間を愛した人魚は、なんやかんやあって最後には泡となって消える。

 

 

 私は狐であるから泡となって消えることはあるまいが、しかし、土に還ることはあるやもしれぬ。

 

 

 なにせ、私の想い人の間近にはあの憎きわんこが小姑のように控えているのだ。相手が子犬だろうとも、私とて一介の子狐である。

 

 

 噛まれて変化が解けるのが何より怖い。ごんぎつねのごとく撃たれるかもしれないが、私はそれより彼から失望されることが一番怖ろしいのだ。

 

 

 よもや恋なるものがここまで厄介であるとは思わなかった。撃たれるよりも犬よりも怖ろしいものがあるとは、恋の矢に撃たれる前の私は想像だにしていなかったのだ。

 

 

 彼から失望されるのを想像するだけで胸が張り裂けそうになる。しかし、彼との仲は散歩のときに声をかける程度でしかない。

 

 

 少しは立ち話もするような仲にはなったが、甲高い吠え声の背景音のせいでままならないのが現状だ。おのれシロ。

 

 

 積極的に話しかけに行く勇気も出ず、私は仕方なく人間とケモノの恋愛譚を読み漁る日々である。

 

 

 最近、読んだのは上橋菜穂子先生の『狐笛のかなた』であった。

 

 

 小夜と野火の互いを想い合う姿はとても眩しくて、私もこういう恋がしたいと強く熱望したが、改めて考えてみると危ない目には遭いたくない。

 

 

 しかし、人間とケモノであってもこんなにも想い合う恋愛ができるのかと考えれば、自信がついたのである。

 

 

 今日こそはもうちょっと長く話そう。そう決意して拳を握った私は、通りすがった犬の吠え声にびくっと肩を跳ねさせた。

 

 

国の争いに巻き込まれていく狐と少女の和風ファンタジー

 

 りょうりょうと風が吹き渡る夕暮れの野を、まるで火が走るように、赤い毛並みを光らせて、一匹の子狐が駆けていた。

 

 

 その子狐――〈野火〉は、おのれの命が、煙のように細くたなびき、消えていくのを感じていた。

 

 

 主につかわされたものの、その武者はたやすい標的ではなかった。魔除けの刀を身につけていたのだ。

 

 

 かろうじて彼の命を救ったのは、この使命を彼に与えた時に主が与えてくれた呪力だった。だが、その力もいつまでもつことか。

 

 

 興奮した犬どもの声が、すぐ背後に迫り、その匂いがどんどん迫ってくる。目を閉じかけた野火の前で、なにか赤いものがちらりと動いた。そして、あたたかい人肌の香りがした。

 

 

 小夜は、夕風の渡る野を、ぼんやりと眺めていた。すすき野の静けさが、小夜には心地よいのだった。

 

 

 小夜は、はっと目を見開いた。すすきの野をかき分けて、遠く、獣の群れが走ってくる。

 

 

 何かが犬に追われている。――と、思う間もなく、すすきの間から、赤茶色の獣が走り出てきた。子狐が、驚いたように小夜を見た。

 

 

 思わず小夜は、さっと衣の襟を両手でつかんで開いた。途端、狐が跳ね上がり、細い風のようになって小夜の懐へすべりこんだ。

 

 

 暖かい風が背の方にまわるのを感じながら、小夜はいちもくさんに駆けだした。無我夢中で進むうちに、ふいに、小道のような場所に出た。

 

 

 そこは森陰屋敷に行く道である。夜名ノ森にある奇妙なお屋敷で、里人の出入りを固く禁じている。しかし、迷っている暇はなかった。

 

 

 爪が土をかく音が、カシャカシャと聞こえ、興奮した吠え声が、すぐ背後に迫ってきた。

 

 

 あまりにおそろしくて、ついに足がこわばって、うごかなくなってしまった。小夜は地面にうずくまって、かたく目を閉じた。――噛まれる……。

 

 

 ギャン、という犬の悲鳴が聞こえた。

 

 

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