大きめの窓を厚手のカーテンが覆い隠している。一筋の日の光すら入ってこない部屋はどこかじめっとした湿り気があった。
寝ころんで天井を見上げると、豆電球がちらちらと明滅しながら揺れている。買い替え時なのかもしれない。
しかし、まあ、まだいいだろうと判断して放っておくことにした。ちかちかするのは気にはなるが、あくまでも気になるだけで済む。
電球を買いに行くにも外に出なければならない。それが私にはたまらなく億劫だった。
人の視線がどうしようもなく気になるようになったのは、いつからだったろう。幼い頃の何も気にせず好き放題振舞っていた自分が眩しい。
あの頃の私は未来の自分がよもやこんなことになっているだろうとは夢にも思うまい。
外を出歩くと、すれ違う人たちがひそやかに私のことを蔑んでいるように思えて仕方がない。彼らが交わす会話が私のことを言っているように思えてくる。
「気持ち悪い」「あんな変な格好して」「なんか怪しいよね」「クスクス……」「怖いねえ」「見ちゃだめよ」「近づかんとこ」「うわぁ……」
やがて、私は外に出られなくなった。あの羽虫でも見るような軽蔑の視線が怖かった。決して私の被害妄想ではないだろう。
私のようなのを今でいう「ひきこもり」と言うのだろう。まさか自分がこんなふうになるとは思わなかった。
ほんの一年前の私は大学を卒業して就職していたのだ。それまでの人生は順風満帆だったはずなのに。
働き始めた時から私の人生の歯車は狂い始めた。
上手くいかない仕事。上司からの嫌味。増えていくタスク。上司からの通話に怯える休日。それらすべてが私の精神を崖っぷちに追い込んでいく。
限界を感じていた。自分の体調不良を願いながら起きる朝。店が潰れればいいのにといつも望んでいた。世界の終わりを求めて生きていた。
カッターナイフを手に取り、手首に当て、結局何もできない。これはうつ病ではないだろうか。いっそうつ病であってくれ。入院させてくれと願っていた。
うつ病は軽度と診断されたが、私は仕事をやめた。それからはずっと、今のような生活が始まったのだ。
私は学生の頃に読んだ一冊の小説を思い出す。
滝本竜彦先生の『NHKにようこそ』という作品だ。当時の私は「ははは、駄目人間だなあ、この佐藤君ってのは」と思っていた。
しかし、今、いざ佐藤君と同じ境遇になってわかることがある。彼の抱いている屈折した想いも今ならばよく理解できるのだ。
彼と肩を組んでいっしょに飯でも食いに行きたいとすら思う。彼を同志のように感じていた。
あの本、どこに片づけたろうか。私は今、切実にあの懐かしい本が読みたくて仕方がなくなっていた。
陰謀を企てる悪の組織
壁が迫ってくる。自分の部屋が一回り小さくなっているような気がした。脈動する白い壁がまるで生きているかのようだ。
いや、これは私の妄想に過ぎない。ただ、私が心の奥底で感じている社会からの圧迫感が、壁が迫ってきているように感じさせたのだ。
金が底を尽きようとしていた。もう後がない。家賃を支払うことすらできなくなるだろう。そうなれば、寒空の下に放り出されるしかなくなる。
解決策はわかっていた。働けばいい。バイトだろうが何だろうが、働けばお金が得られる。そうすれば、まだ生きていられる。
しかし、そのことがわかっていながらも、どうしても実行に移すことが出来なかった。
こうなる前に、私はいくつかの職に就いていた。最初の職場であるホームセンターをやめた後は、中華料理店でも働いたし、菓子工場でも働いた。
しかし、そのどれもが上手くいかなかった。結局、どこに行っても私は長く続かず、中華料理店に至っては一週間しかもたなかった。
どうしてこうなってしまったのだろう。かつては普通の、何事もない生き方を送っていた人間だったのに。
佐藤君にとっての『NHK』のような、いわゆる陰謀があってくれたなら、どれほど気が楽だったろう。
誰かのせいにしたかった。抗いがたい何かのせいにしたかった。だが違うのだ。すべては自分自身のせいなのだ。
お金は尽きていく。金がなければ生活ができない。しかし、私はそれでも働きたくはなかった。
ホームセンターで縄を買って、あてもなくふらふらと彷徨い続けたこともある。終わらそうとしていたのに、結局何もできずに帰った。
その時に買った縄が目に入る。しっかりと結んである縄だ。そこそこ高かったのに、出番がないままで終わっている。
いっそのことすべてを終わらせてしまえば楽にもなろう。しかし、それすらできない臆病者であることを私は知っている。
生きるということ。それをしているだけでもすごいことなのだということを世の中の人は気付いていない。佐藤君や私のような人間は初めてそれを知るのだ。
悪者なんていない。救ってくれる者もいない。だから、何かを得るには、私自身が何かをしなければならないのだ。
私は重い腰を持ち上げて立ち上がる。幽鬼のように歩いて、扉のノブを握り締めた。
開け放った先にあるのは、はたして暗闇か、光か。いいや、光でも闇でもない、そこにあるのはそれよりももっとひどい、現実だ。
ひきこもりの鬱屈とした心情をありありと描いたヒューマンドラマ
この世の中には「陰謀」が存在する。しかし、他人の口から語られる陰謀の多くはただの妄想、もしくは意図的な大嘘に過ぎない。
だが、それでも我々人類は「陰謀」が大好きだ。その甘く切ない響きに、我々はどうしようもなく魅了されてしまうのである。
鬱積する怨念、尽きることのない社会への憎悪、怒り。しかし、それらの怒りは、ほとんどが自分自身のふがいなさに由来している。
だが、その事実を認めて自らの無能さを自覚する作業には、かなりの勇気を必要とする。
そこで陰謀論者は、自分のふがいなさを外部に投影する。自らの外に架空の敵を作り出してしまう。
すべての陰謀論者は、もっと現実を見つめるべきなのだ。
「敵」は外部に存在しない。あなたが駄目人間なのは、あなたにその責任がある。そのことを、しっかりと肝に銘じて生きていくべきだろう。
しかし、それでも――ごくまれな確率で、本物の「陰謀」を悟ってしまった人間が存在する。それは誰だ? 俺だ。
俺が「陰謀」の存在を知ったのは、寒い寒い一月の夜だった。六畳一間の狭いアパートで、俺はコタツにもぐっていた。
そろそろ現状を打破しないと、完璧に落伍する。人類社会から落ちこぼれてしまう。
しかし、どうしても、それができない。なぜか。答えは簡単だ。ひきこもりだからである。
俺は一刻も早く、この爛れたひきこもり生活から抜け出さねばならない。しかし、そんな決心は、十分もたたないうちに霧散してしまう。
そこで俺は、自らの弱り切った精神を立ち直らせるために、通販で取り寄せた奥の手の力を頼りにすることにした。
ああ、楽しいなぁ、愉快だなぁ。家具のみんなが俺のことを応援してくれていた。その声に勇気づけられて、俺は外に出る用意をする。
が、しかし、なぜかアパートのドアは開かなかった。なぜだ。なぜドアが開かない。何者かが、俺の脱出を妨害している。
俺がひきこもり生活を始めた、あの頃のことを思い出す。
通り過ぎる人が皆、俺を見て、彼らは確かに嘲笑していたのだ。その事実に俺は愕然とした。それ以来、俺は外に出るのが恐ろしくなったのだ。
その瞬間、長らく俺の精神を覆い尽くしていた深い暗闇は、ついに取り払われた。だけど、誰が何の目的でそんなことを。
そのとき、ふいにテレビがこんなことを呟いた。
「NHKは皆様の受信料によって運営されております」
その一言は、なぜか俺の心をかき乱した。NHK。アルファベット三文字に重大な秘密が隠されているような気がしたのだ。
……そうか。簡単な話じゃないか。ついに謎が解明された。俺は全ての真相を悟った。
「すなわちNHKとは、日本ひきこもり協会の略だったのだ!」
その日から俺の戦いは始まった。ドアが開かなかったのは、単に鍵をかけていたせいに過ぎなかったが、些細な問題である。
NHKを倒すその日まで、俺は雄々しく戦い抜く。決して負けはしない。
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