名作から学ぶ短編小説の極意『短編小説講義』筒井康隆


正直に独白するならば、私は短編小説というものを軽んじていた。それが愚かな考えなのだと自覚したのは、筒井康隆先生の『短編小説講義』を読んだことがきっかけである。

 

私は昔から短編集というものが苦手であった。私はそもそも、物語に入り込むのにやや時間がかかる。そうしてようやく入りこみ始めたかと思えば、短編だとすでに結末に差し掛かっている。そしてまた、別の短編が始まるのだ。その繰り返しである。

 

長編は良い。入り込みきった頃には、私の意識はすでに主人公と一体化している。彼の目で世界を見、彼とともに世界を生きて、泣き、笑い、冒険をする。恋愛をする。推理をする。

 

よく組み立てられた長編小説は、なんとも読みごたえがある。読み終わった後、口から吐く読後感のため息が心地よい。それは、眼前にそびえる山を登り、下りきったがごとくの満足感がある。

 

対して、短編小説ときたら。読み切っても、何か物足りない。物語はきれいにまとまっているのに、どこか満足できていない感覚がある。食っても食っても満腹にならない。あっという間に読み終わり、頭に残るほどの噛み応えもない。

 

ゆえに、私は長編小説を礼賛し、短編小説を侮蔑していた。まことに愚かである。私の目を覚まさせてくれたのが、『短編小説講義』というわけだ。

 

小説は自由である、というのは先生がさまざまな著作で述べている哲学であるが、曰く、短編小説は規範のようなものが出来上がってしまっている。これは異なことである、というのが序文に綴られている。

 

では、短編小説の規範とやらが生まれてしまう前に立ち返ってみよう、というのが、この本の求める意義であるらしい。いくつかの短編小説の名作を取り上げ、いったいどういった内容で、どういったものが内包されているかを、先生の目から見て、作者の経歴とともに語っている。

 

私が短編小説を嫌悪しているというのもあるが、列挙される作品はどれも聞いたことすらない表題である。だが、なるほど、ストーリーを聞けば、なんとも興味を惹かれるものであった。

 

読み終わった頃には、私の中の短編小説への偏見ががらりと変わっていた。この作中で挙げられている短編を、読みたくてたまらなくなっていたのである。

 

考えてみれば、俳句や短歌は短いからこそ難しいという。ならば、短編小説もまた、同じ道理を持つに違いない。不要なものを削りに削って、そうして必要なものだけが残った。それこそが短編小説なのだ。

 

ゆえに、短編小説はよく磨かれたナイフである。次第に全貌が明らかになってくる長編とは違い、短編は、一瞬で我らが胸を突き刺し、心に深く刻ませるのだ。

 

真に洗練された短編小説は、それこそ名刀のようなものだろう。触れば斬れる。だが、その輝きに魅せられてしまう。斬られた傷すらも誇りに思う。そうしてまた斬られにいく。

 

以来、私は一転して、短編集をよく読むようになった。長編小説を愛し、短編小説をも愛するようになった。そのおかげで、読まず嫌いから解放され、いくつもの名作と出会うことができている。

 

古来の作家たちが、短編小説を書く上で骨子としていたもの。先生の言葉を借りるならば、内在律とは何か。その答えは、理屈や規範の上などではない、やはり、本のページの中にあるのだ。

 

 

短編小説は小説のお手本に過ぎないのか?

 

阿部昭氏の『短編小説礼讃』という本が刊行されたのがきっかけで、短編小説そのもののブームというのではなく、なぜか短編小説という文芸ジャンルや形式についての取り沙汰や議論が活発になり、それが二、三年続いた。

 

ぼくが興味を持ったのはそれらの中での田辺聖子氏の次のようなことばだった。「短編小説というのは、よくできましたといって赤で三重丸をつけてあげたくなるようなものがやたらに多いので困ってしまう」

 

これはどういうことかというと、模範的な短編小説が存在するという観念の一般化があり、田辺さんはそれを否定的に指摘しているのである。

 

模範的な短編小説が存在するということは、短編小説を書く上での規範があるということだ。しかし、これはおかしなことである。

 

そうした形式上の束縛を嫌い、より自由に書こうとして生まれた文学形式こそが小説だったはずなのである。それならなぜ今、小説作法の類いの書物やコツと称されるものや、その他何やかんやが巷間に満ちているのだろう。

 

第一に言えることは、日本人の芸道好きの性向が、小説を芸道化しているという事実である。芸道化した短編小説作法がお手本にしているのは、当然のことだが古今の名作とされている短編小説であり、、ここから短編小説の二極分裂が始まった。

 

はるか高みには古今の名作が存在し、地上にはそれらを学ぼうとする多くの作家志望者がいる。そして実はその間で、現代小説としての短編小説そのものは次第に衰弱しつつあるのだ。

 

短編小説の場合、ともすれば自由詩や随筆などと区別がつかなくなり、いわばこれが世に短編小説作法の満ち溢れる第二の原因となっている。

 

創作心理というものを考えると、どのようなジャンルであろうが、なんの内在律もなしに書ける文芸作品など、ちょっと考えられない。

 

では、まだ短編小説作法などというものも存在しない時代、作家たちが短編小説を書く上で内在律としていたものは何だったのだろう。

 

今、ぼくにとって極めて重要なこれらの問題の答えを出すためには、もう一度その時代に書かれた短編小説を、書くためのお手本としてではなく、ただ自分の鑑賞力だけを頼りに、虚心に読み返すことが最善の道ではないかと思う。

 

それを考えるために、いくつかの短編をとりあげてご紹介するとともに、現代の短編小説をとり逃がしているかに思えるさまざまな手法を探索していくことにしよう。

 

 

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