この世のすべてがつまらなかった。なんでも望むものが手に入ったがゆえに、この世に僕が望むものは何もなかった。あの時、あの瞬間、君と出会うまでは。
何年も前のこと、『沼地のドロテア』という物語を、読んだことを今でも覚えている。
名のある作家というわけじゃない。無数にころがっているネット小説の、中にあるたったひとつでしかない。
だけど、今まで読んだどんな名作名文よりも、その作品は僕の心を惹きつけたんだ。何を読んでも心に何も残さなかった僕が、その時だけは、何か引っかかるような感覚を感じていた。
父の失敗した事業によって、見る影もないほど汚れてしまった湖の後始末を押しつけられているドロテア。彼女が獣人のウルバーノとの出会いをきっかけに成長していく、という話。
僕は読んでいて、このドロテアという少女が嫌いで嫌いで仕方がなかった。字面だけだというのに、まるで彼女を目の前にしたかのような嫌悪を感じていた。
彼女は自分の容姿をコンプレックスに感じ、ひどく卑屈で、自信がなく、どこまでも自分を卑下していく。
周りを見ようともせず、投げつけられる言葉のひとつひとつに傷ついて一層俯く彼女を見ると、腹が立って仕方がない。
それに輪をかけて不愉快なのが、エンリケという男だ。彼は美しく、優れた才能に溢れ、そして、性格が最悪だ。
ドロテアに投げつけられる彼の言葉は年頃の女性に対しては心を抉るような残酷なもので、読んでいて思わず眉をひそめるほど。
決して読んでいて楽しい物語ではない。むしろ、読んでいくにつれて苛々するような物語だ。
それなのに、僕はこの作品のことをずっと忘れることができなかった。それも、嫌いな物語というわけでもない。
卑屈なドロテアも、意地の悪いエンリケも、僕は嫌いだ。だけど、彼らの関係から、どうしてだか、目を離すことができなくなっていた。
嫌いだけど、好き。楽しくないけれど、何度も繰り返し読んでしまう。矛盾したこの感情の正体を、僕は長らくわかっていなかった。
その感情を、僕に教えてくれたのは君だ。君と出会った時、僕が思い出したのはその物語のことだった。
君はドロテアにそっくりだ。卑屈で、いつも俯いてばかりいる。一生懸命で、それなのに、どこまでも鈍感だ。
だから僕は、君が嫌いだ。君のことが、この世に存在する何よりも嫌いだった。君と出会った瞬間、僕の世界はすっかり変わってしまったんだ。
君と出会ってようやく、僕は世界を楽しく感じるようになった。僕は何も愛してなんていないけれど、君のことを嫌いになることはできた。
ああ、だからずっと、僕は君と一緒にいたいのさ。君だけが僕の灰色のつまらない世界に、不愉快な色を付けてくれるのだから。
人と向き合って傷つけあって成長していく
「待ってください! せめてお話だけでも……」
薄暗い沼の畔で私は傭兵の男に必死で追いすがった。撥ねのけられ、バランスを崩して尻もちをつく。水の浸み込む嫌な感触があった。
すぐに立ち上がって追いかけようとしたが、自分の前掛けを踏んで無様に転んだ。すでに男は深い森の中だ。追いつけるわけもない。
汚い、臭い、気持ち悪い、……まあ、無理もないか。ため息を吐いた。
沼を振り返ると、緑とも灰色とも茶色ともつかない淀んだ色の、すでに水というのもおこがましいような液体が強烈な腐臭を発している。
沼の向こう岸は靄がかかって見えない。瘴気があまりに濃いために可視化して霧となっているのだ。沼の中には何かもっと大きな気配もする。
こんなことなら防護服を着てから日雇い助手を迎えに来ればよかった。日雇い助手となる予定だった男には気味悪がられて逃げられてしまったのではあるが。
これで傭兵に逃げられるのは六人目だ。私、ドロテア・スニガは肩を落として荷物を背負い直すと、沼から少し離れた我が家に引き返すことにした。
数年前までこの沼、ビジャ湖は観光の呼び物となるほど美しかった。それをヘドロと瘴気の沼に変えたのはアルバロ・スニガ、魔法機械工である私の父だ。
生活排水の処理を依頼され、ビジャ湖を利用しようとしたが失敗し、三年前、沼の毒に侵され失意のうちに父は亡くなった。父の後を継いで魔法機械工になった私はこの沼の浄化を続けている。
この沼、ビジャ湖はただ水質が汚染されただけでなく、父が沼を浄化するために作りだしたスライムたちが暴走したために沼自体が瘴気を出すようになってしまった。
周辺住民は父を、そして跡を継いだ私を恨んでおり、うっかり目が合ってしまうと凄まじい目つきで睨まれる。賠償金の支払いが滞っているからだ。
とはいっても、私はすでに知人の悪魔に無心した金で行政側への支払いは終えている。
知人の悪魔、エンリケ・バジェステロス、彼の禍々しい赤い目が脳裏をよぎる。この天敵にして恩人の男の美しい笑顔が私はこの世で一番恐ろしいのだ。
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