私はその本を手に取る前、そんなに怖くないだろうと思っていた。たかがストーカーなんて。怪物でも幽霊でもなく、所詮は人間じゃないか、と。
五十嵐貴久の『リカ』。出会い系サイトに入り浸る男は、そこで「リカ」と名乗る女性に狙いを定める。
しかし、当初は大人しそうだったリカは、次第に常軌を逸した言動をするようになっていった。
何百回と電話をかけ、ファックスを送りつけ、家の玄関に自分の髪の毛を貼り付ける。教えていないのに自宅の場所や妻子のことまで知られているというのは、たしかに恐ろしい。
私は『リカ』という作品を、読む前はストーカーの恐怖を描いた作品だと思っていたけれど、どうも違うことに気が付いた。
作中に描かれている「リカ」は、人間という枠を外れて、ただ純粋な「リカ」という怪物と化していた。
彼女の行動は異常で、その人格も崩壊している。残酷で、自分勝手で、ぞっとさせられるような精神性が垣間見えることもあった。
けれど、どうにも私は、素直に恐怖を感じられないでいた。それどころか、リカを哀れにすら感じていたのだ。
それはやはり、どれだけ怪物のように変貌し、常軌を逸した精神を抱いていたとしても、私の中では、まだ彼女が「人間」だったからなのだろう。
だからこそ、妻子のある身でありながら出会い系に溺れた男は、どこまでも自業自得だと感じていた。
彼は出会い系サイトをゲームのように楽しみ、女性とのやりとりもどこか遊びのように楽しんでいた。
彼には、真剣に女性と向き合うつもりはなかった。私の目には、「リカ」が彼の遊びに振り回された被害者のようにしか思えないのだ。
リカにつきまとわれるようになった途端、手のひらを返すように突き放す態度を取った彼にこそ、私は嫌悪を抱いた。
その後の反省も、薄っぺらいものであるようにしか感じられない。自分の被害を嘆くばかりで、相手の女性のことを何も考えていないようにしか見えないのだ。
とはいえ、彼に対してのリカの言動は、たしかにぞっとするものがあった。それは幽霊だとか、怪物だとかに対する恐怖とはまた異なるものだ。
昨今、よくニュースでストーカーの事件を見かける。それを見るたびに、私は背筋にぞっとおぞましさが走るような気がした。
相手の好意を考慮しない、自分本位な恋。彼らの中では、自分と相手は運命に結ばれた恋人同士であり、邪魔する存在はみんな敵だとしか思わない。
よもや、本人から拒絶されていようとは、彼らは想像すらもしないのだ。本人の言葉すらも、都合のいいものに歪曲される。
その異質な精神構造は、まさしく「怪物」だ。リカのように。彼らに言葉が通じない。
しかし、何より怖ろしいのは、そんな「怪物」が、自分たちと同じ「人間」なのだという事実だろう。
そのおぞましい「怪物」の姿を、自分の中にも見出すからこそ、ストーカーは恐ろしいのだ。ともすれば、怪物や幽霊よりも、よほど。
愛は素晴らしいものだ。けれど、想いが通じ合っていないと、それは愛ではなく、暴力へとなり果てる。
リカはたしかに恐ろしい。けれど、彼女が本間に向けた想いは、どんな形であれ、本物だったように思う。
愛が彼女を狂わせたなら、彼女を「人間」に戻すのもまた愛だろう。彼はそれを彼女に与えることができなかった。
一方的ではだめ。愛は双方向でなければならないのだ。そう、まさしく私と彼のように。
「そうだよね、先生?」
私が彼を見上げると、壁一面に貼ってある彼の顔が、私に向かってにっこりと微笑んだ。
ストーカーの恐怖
私が出会い系サイトの存在を知ったのは、ちょうど四十歳の誕生日を迎えた頃だった。
最初は半信半疑だったが、すぐにハマりこむようになった。しかし、妻と娘を愛していたから、メール交際を楽しむにとどまっていた。
私の中でわずかに変化が起きたのは、それからしばらくしてからのことだった。
社会人としても家庭人としても落ち着かなければならない年代が目前に迫っていた。このまま流されてそうなってしまうのは嫌だった。少しだけ、抵抗してみたかった。
一度だけ、会うことを前提にメール交換をしてみようか、と思ったのだ。別に会って何かするというわけではない。妻を裏切るつもりはなかった。
私はメール交換の相手を探す条件として、実際に会える人、という項目に丸を付けた。それでも後ろめたさがあったために、会うとしてもひとりだけというルールを自分に課した。
私はカーソルを移動させた。ハンドルネームは《ナースデース》となっていた。
「こんにちわ、はじめまして。都内の病院に勤めている、看護婦のリカです」
私はカーソルをアイコンに当ててクリックした。アイコンには”メッセージを送信します”と記されていた。
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