逃げ出した者の世界『箱男』安部公房


雨が降っている日だった。家の少しだけ突き出した屋根の下に、ソレはいた。濡れないように身を小さく縮込めて。ダンボールに開けられた穴から、虚ろな瞳が私を見つめていた。

 

当時の私は、安部公房の作品には大して触れてはいなかった。読んだことがあったのは、せいぜい『赤い繭』と『砂の女』と『飢餓同盟』くらいのもので。

 

とはいえ、彼の代表作のひとつとして、『箱男』というタイトルは私の脳裏にこびりついていた。だからこそ、ソレを見た時にその小説のことを思い出したのだろうし、私がその作品を読むことを決めたのは、ソレを見たことがきっかけだった。

 

大きなダンボールを頭からすっぽりと被いた人間。覗き穴から垣間見える彼のただひとつの「人間」としての部分が、『箱男』を読んでいる私の頭にはちらちらと浮かびつつあった。

 

『箱男』は今まで私が読んだことがないくらい、変わった作品だったといえよう。その奇抜さはメタ小説である『ドグラ・マグラ』や衒学趣味の『黒死館殺人事件』とはまた異なる意味で際立っていた。

 

まず、続き物の物語のようではない。ページの切れ端を集めたような、パズルを彷彿とさせるつくりで、箱男となった人物の手記が開示されていく。

 

それと同時に、随所には古びた写真がスッと挿しこまれてきて、小説を読んでいるというよりは『箱男』に関する記述を調査しているような心持になった。

 

なんでも、『箱男』は安部公房が「書く」という行為について突き詰めて、従来の小説や物語の形式を壊していった「アンチ・ロマン」と呼ばれるものらしい。一見奇天烈な構成になっているその作品は、つまり全て作者の思惑の通りであり、緻密な実験の末の完成形であるという。

 

読んでいく中で、私の心を捉えたのは、箱男を空気銃で狙撃した男が、自らも箱男になる、という話だった。

 

一般的な人たちから見れば、箱男はただのホームレスである。いや、それ以下の存在だ。彼らは箱を被ることで個人であることを捨てているのだから。それは、憐憫や侮蔑を感じることがほとんどであって、決して憧憬を抱くようなものじゃない。

 

にもかかわらず、どうして彼は箱男になったのか。それも、邪魔な存在として狙撃するほど嫌悪していたその存在に。

 

それは、現代に生きる私だからこそ、わかる気がする。「自分」という存在を徹底的になくした「匿名性」が、いかに私たちにとって魅力的であるか。自分のことを知られることもなく、一方的に相手のことを見ることができることが、いかに私たちに優越の味を感じさせるか。

 

安部公房は知らず、私は知っているもの。現代を跋扈するネットというものは、まさしく「そういうもの」ではないか。SNSで呟いたり他人を中傷したりしている人たちは、みな「箱男」のようなものだ。

 

街中を歩く。雑踏は誰も彼も、箱を被っていた。どこもかしこも箱男ばかりだ。箱を被ると「自分」という存在から解放され、何者でもなくなる。かつて、安部公房が「箱男」と称したその事象は、今や当たり前の光景となっている。

 

一方的な覗き穴から見える他の箱男たちは、人間ではなく、ただのモノでしかない。かつて、箱男はただ相手をじっと見つめることしかできなかった。ところが現代の箱男は、箱の中に隠れたまま、他人を好き勝手に攻撃できるようになったのだ。

 

そんな世界を見ていくうちに、ふと、気付く。私自身を覆うダンボールを。「誰でもないもの」になるのは心地よかった。私自身もまた、ひとりの箱男なのだと、私はその時気がついた。

 

 

匿名であることの魅力

 

これは箱男についての記録である。ぼくは今、この記録を箱のなかで書き始めている。頭からかぶると、すっぽり、ちょうど腰の辺まで届くダンボールの箱の中だ。つまり、今のところ、箱男はこのぼく自身だということでもある。箱男が、箱の中で、箱男の記録をつけているというわけだ。

 

ダンボールの空箱は、縦、横、それぞれ一メートル、高さ、一メートル三十前後のものであれば、どんなものでも構わない。ただ実用的には、俗に「四半割り」と呼ばれている、規格型のやつが望ましい。

 

最近のダンボールは、普通品でもかなりの強度があるし、一応の防水加工もしてあるので、雨季をすごす場合以外は、とくに品物を選ぶ必要はない。むしろ普通品の方が、通気性がいいし、軽くて使いやすいくらいだ。

 

とくに製作の手順というほどのものではないが、まず箱の上下を決め、底蓋の部分を切り取っておく。次に、切口の露出部分――天井三か所と、側面のつなぎ一か所――を、ガムテープで覆ってほしい。

 

さて、もっとも慎重を要するのが、覗き窓の加工である。窓の上縁が、天井から十四センチ、下縁がそれから、さらに二十八センチ、左右の幅が四十二センチ、といったあたりが無難だろう。

 

次は、覗き窓に掛ける、艶消しビニール幕の取り付けだ。これにもちょっとした秘訣がある。要するに開口部の外側、上縁に、ガムテープで貼り付け、あとは自由にしておけばいいのだが、あらかじめ縦に一本、切れ目を入れておくことを忘れないでもらいたい。

 

このビニールの隙間は、箱男にとって、いわば眼の表情にも匹敵するものだ。ちょっとした加減で、はっきりと意思表示することだってできるのだ。無防備な箱男にとっての、数少ない護身術のひとつだといっても言い過ぎではないはずだ。

 

最後に、残った針金を、五センチ、十センチ、十五センチの三種類に切り分け、それぞれの両端を逆方向に折り曲げて、壁に吊るす鉤にしておく。

 

ゴム長靴については、とくに補足することもない。穴が開いていさえしなければ、けっこうである。

 

 

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