カビの生えたパンを齧る。腹が空腹を訴えた。黙れ、今月はこれで最後だ。俺はそう言って腹を殴る。痛い。痛い。誰のせいだ。
母は男とともに逃げた。父は早くに亡くなった。俺のもとに残ったのは、二人が残した借金だけだった。
働いても、働いても、金にならない。必死に働いてもらった金は、すぐに借金取りが吸い上げていく。
腹が狼のようにぐるぐると唸った。きりきりと締め付けるような痛み。まるで胃袋が雑巾で絞られているかのようだった。
「ハッ、いい気味だな」
誰かが言った。脂汗をかいて蹲る俺を、誰かが見下ろしている。視界に映る裸足は、真っ黒に汚れていた。誰だ。誰だ。
「お前は俺が誰か、知っているはずだ。そうだろ」
ああ、その通りだ。知っているとも。こいつは俺だ。俺が飢餓の末に作り出した幻。その姿は痩せ衰えた浮浪者だったこともあるし、でっぷりと太った富豪のこともあった。
そいつは俺の耳元に口を寄せた。吐く息が鼻にかかる。その息はまるで鼠の肉のような臭いがした。
「誰のせいだ。誰のせいで、お前はこんなことになっている」
俺自身か。いいや、違う。俺は生まれた頃からすでに搾取されていた。金も、時間も、人間としての尊厳も。
あのハイエナのような借金取りか。近づいたが、違うな。あいつらは食べ残しを貪るだけだ。奴らはお前がこうなった後に骨までしゃぶるためにやってきたのさ。
俺を捨てて逃げた母と、ろくでなしだった父。いい線だ、だが、それも違う。原因のひとつではあるが、元凶じゃない。
「正解は、な、社会だよ」
この社会は上に立っている奴が得をするようにできている。マイクに向かってタスキを掲げてそれっぽいことを言っているが、何も変わらない。
法律も、俺らのためじゃない。あいつらが自分が楽できる今の立場を守るためのものさ。お前がこうやって苦しんでいるのは、その犠牲になったに過ぎない。
社会はそういうふうにできている。誰が悪いわけでもないんだよ。人間は誰しもが、そのシステムに則って生きているだけだ。
飢えるのが苦しいか。腹いっぱい食べたいか。ハッ、今の社会じゃ無理だ。法律が、規則が、お前を飢えさせているのさ。それでも変えたいってんなら。
「社会を丸ごとひっくりかえすしかねぇな」
誰かの声が囁いた。俺ははっと顔を上げる。目の前には誰もいない。代わりに、一冊の本が置いてある。
この本は何だ。あの俺が置いていった本か。いや、違う。誰かが置いていったのだ。そう、あれは誰だったか。
飢餓同盟。その言葉は、どうしてだか、無性に俺を惹きつけた。俺が飢餓だからか。それとも。
飢餓同盟は革命を目指して結成された。発起人は花井太助。彼を中心に、搾取されている社会的な弱者たちが集まった。
花井の指揮のもと、彼らはとうとう活動を始めた。それは閉鎖的な田舎町から始まった、反乱の狼煙である。
かすかな音がする。カサカサという音。壁に空いた小さな穴の奥から、鼠が顔を出した。そいつを見つめる俺の口の端からよだれが垂れる。
爛々と輝く獣のような瞳で鼠を見つめる俺を、俺はにやにやと口角を上げて眺めていた。
俺の目に野心が宿った。社会への復讐。現在の境遇への憎悪。それが彼の飢えた野望に火をつけた。
飢餓同盟の反乱は次第に暗雲が立ち込めてくる。花井の横暴な態度に離脱者が次々と現れ、職を失い一層の貧困に悩む者もいた。
正しいか正しくないかは意味がない。ただ、社会が存在しているということに意味があるのだ。
革命なんてできない。そんなことは、焚きつけた俺自身がもっともよくわかっていた。そう簡単に変わらないからこそ、社会は基盤たりえるのだ。
ああ、いい香りだ。野心が焼ける香りはいつだって香ばしい。俺の口の端からよだれが垂れる。ああ、楽しみだ。燃え尽きた頃合いが、食べ頃だろう。やはり、焼き加減はレアがいい。
貧相な革命家たち
二十三時五分。最終下り準急列車。ゴム引きの合羽を着た若い駅員がひとり、せかせかした足取りで、降り積もったプラットホームを行き来していた。
駅員は発射合図のランプをあげようとした。ちょうど、そのとき、彼が立っていたすぐわきの昇降口から、呼び止められたのである。――ここは、花園じゃありませんか。
駅員はためらった。ここ二三日、補欠選挙の工作に大物が乗り込んでくる可能性があり、花井太助から厳重な見張りを言い遣っていたのである。
花井太助はキャラメル工場の主任であり、ひもじい同盟、後に飢餓同盟の有力な指導者のひとりだ。
駅員は疑わしげに、しばらく黙って突っ立っている。首を傾げ、男が雪の中に吸い取られていくのを見送ってから、妙に沈んだ気持ちで詰め所に戻った。
最近、ひもじい同盟の正体がさっぱりわからなくなってしまったように思うのだ。いや、考えてみれば、はじめからわかっていたわけではない。
一年ほど前、花園新聞の記事で知って、月に一度文化ホールで開かれる読書界に出たのが、事の始まりだった。
彼はもうその集まりのことをはっきりと思い出すことはできない。車座になった、七、八人が、一方を向いている奇妙な姿で浮かんでくるだけだ。
彼は一度でこの読書界にこりてしまった。そしてその帰りに花井といっしょだったのである。
突然彼の記憶がはっきりする。「あいつらは、馬鹿だよ」花井がいきなりそう言った。その一言で彼は花井を、信頼してしまったのだ。この場合、疑惑を解いたと言った方がいいかもしれない。
疑惑、というのは、花井太助についての、妙な噂だった。しっぽが生えているというのである。
まったく、やつらは馬鹿ですよ。強く相槌を打つと、次の瞬間彼の記憶は工場の守衛室の隣りの花井の部屋にとんでいる。
あれはたしかに冬だった。はっきりしていることは、その日、町のボスどもに対する激しい攻撃の熱弁を聞き、ついつられてひもじい同盟に加入させられてしまっていたということだ。
彼はひもじい同盟の同盟員になった。同盟員になって一年経った。しかし考えてみれば、同盟について、なにひとつ知っているわけではないのだ。
彼と同盟の間には、点のように花井が存在するだけだ。花井の向こうには何があるのか、想像することもできない。もしかすると、彼が思っているようなものとは、まるで違ったものかもしれないのだ。
同盟はいったい何をしているのだろう? 同盟は果たしておれを正式に登録してくれたのだろうか?
花井はいろいろなことを喋ったが、具体的なことはなにひとつ言わなかった。町政を罵倒しても、分析をしようとはしなかった。革命をしなければならないと言ったが、どうしろとは言わなかった。
しかし彼はそうした花井の態度から、なぜか子どもの間だけにしか通用しない、あの残酷な友情が思い出されてならないのだった。
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