恐妻家の殺し屋の家族愛『AX』伊坂幸太郎


 家族といえど、もとは知らない男と女。家族の間にも、決して明かせない秘密というものは一つや二つはあるものだ。

 

 

 私のあの秘密だけは、決して彼女に知られてはならない。他のことならばともかく、あのことだけは。

 

 

 私は彼女と出会う前からその秘密を抱えていた。誰にも知られず、墓場まで持っていくつもりだった。

 

 

 彼女はもちろん、親友や親にも、打ち明けたことはない。私は完璧に隠し通した。

 

 

 もしも、知られてしまえば。そう考えるだけでも、さながら地獄の業火に晒されたような恐ろしい恐怖が私の身を震わせた。

 

 

 知られた途端、私に向けられる親愛の視線はすべて侮蔑のそれへと変わり、微笑みかけてくれていた近所の老人すらも嫌悪の情を浮かべて唾を吐きかけるだろう。

 

 

 その秘密は私を破滅へと導くための兵器だった。私の積み上げてきた人生をことごとく崩壊させかねない最終兵器だ。

 

 

 彼女との結婚生活の上で、私の享受した幸せの足もとには常に恐怖があった。私は彼女に知られないよう細心の注意を払っていた。

 

 

 子どもが生まれた時、私と彼女は嬉しくて涙を流した。しかし、子どもが大きくなっていくにつれて、私の中の恐怖も胎児が蠢くように育ってきたのだ。

 

 

 我が子に知られてしまえば、その小さな口から彼女にまで伝わってしまうかもしれない。私のもっとも愛している人間を、私は警戒しなければならなくなった。

 

 

 しかし、もういっそ、何もかもを打ち明けてしまおうかとすら考えてしまう時がある。

 

 

 愛している家族に恐怖しなければならないことが、何よりの苦痛だった。穏やかな家族の会話の裏側で、私はいつも伝えることを妄想し、そして絶望していた。

 

 

 彼女が受け入れてくれるわけがない。いや、私を受け入れてくれないだろうからこそ、私は彼女を選んだのだ。

 

 

 彼女は善良な人間だった。素直になれないが、根は正直で、誰にでも優しく、人に寄り添うことの尊さを知っている。

 

 

 彼女の隣りに立つことができた幸福を噛み締めて、私はいつも朝を生きることができる。

 

 

 しかし、そういった時に私は思い出すのだ。私が彼女にふさわしくないことを。私の身の毛もよだつほどおぞましい正体を。

 

 

秘密はいずれ暴かれる

 

「ねえ、なにか私に隠していることがあるんじゃないの?」

 

 

 ある時の昼下がり、彼女がちらと私に視線を送りながら放ったその言葉は、私を恐怖の坩堝に叩き落とした。

 

 

 まさか、あのことがバレたのだろうか。いや、そんなはずはない。あの秘密が知られたならば、彼女が私に話しかけてくるはずがなかった。

 

 

 私の背筋に冷たい汗が伝う。呼吸が苦しくなり、彼女のまっすぐな視線が見れなくなる。

 

 

「ねえ、私、知ってるのよ」

 

 

 生唾を飲む音がやたらと大きく響いた気がした。ともに嚥下した悪寒は喉元を過ぎて、臓腑の奥へと落ちていく。

 

 

 なんだ。彼女は何を知っているというのか。ただのかまかけか。いや、しかし、彼女の態度はあまりに自信に満ちている。まるで本当に何かを掴んでいるかのように。

 

 

「そう、あくまでも白を切るつもりなのね」

 

 

 今の私はまるで閻魔の前に引きずり出された罪人のようだった。どれだけ罪を隠そうとしても、何もかもが白日の下に晒される。

 

 

 これから私はどうなるのだろうか。私の秘密が知られてしまえば、すべておしまいだ。

 

 

 しかし、私を追い詰めた彼女は、ふうと息を吐くと、すっと追撃の手を緩めた。私は彼女の意図がわからずに目を瞬かせる。

 

 

「いいわ。家族の中でも秘密はあるものよね。でも、悔しかったのよ。あなたは大切なことをわかっていなかったみたいだから」

 

 

「大切なこと?」

 

 

「あなたがどんな秘密を抱えていても、私はあなたのことをずっと愛し続けているということよ」

 

 

 そう言った彼女の笑顔を、私はずっと忘れることはないだろう。涙の向こう側に見える彼女は、天使のように輝いて見えた。

 

 

愛情深い父親の秘密

 

 玄関ドアにカギを差し込む。ゆっくりと入れたにもかかわらず、がちゃりと響くのが、兜には忌々しくてならない。

 

 

 靴を静かに脱ぐ。すり足で、廊下を進んだ。リビングは暗い。家の人間は全員、といっても二人だが、すでに寝入っているのだろう。

 

 

 息を潜ませ、自分の動作に気を配りながら、二階へと上がる。昇って、右手の部屋に入る。電気を点け、聞き耳を立てた。ゆっくりと息を吐く。ほっとする瞬間だ。

 

 

「なあ、兜、おまえは所帯持ちだから、これから家に帰って、こっそりカップラーメンでも食べるんだろ」

 

 

 以前、同業者の男に言われたことがある。彼らは、妻子持ちの同業者が珍しいからか、兜にずけずけと質問をぶつけた。

 

 

 彼らは裏の同業者だった。兜は表では文房具メーカーに勤めていた。四十代半ばとなった今は、営業部でもベテランのひとりだった。

 

 

「馬鹿言うな。カップラーメンなんかを食べるわけがない」

 

 

 兜は怒った。カップラーメンは意外とうるさいのだ。深夜に食べるにはあまりにも。その音で妻が起きた時の重苦しさといったらない。

 

 

 兜は仕事では緊張しないが、妻に『うるさくて眠れなかった』と指摘されると、胃が締め付けられるような感じがした。

 

 

「バナナか、おにぎり、と考える奴はまだ、甘い」

 

 

 深夜に帰ると、妻が起きて待っていることがあった。そうなった場合、彼女の手料理を食べることになる。

 

 

 しかし、コンビニエンスストアのおにぎりは消費期限が短い。バナナも意外に日持ちしない。

 

 

「つまり、最終的に行き着くのはソーセージなんだ。魚肉ソーセージ。あれは、音も鳴らなければ、日持ちもする。腹にもたまる。ベストな選択だ」

 

 

 背広のポケットに突っ込んでいた魚肉ソーセージを取り出す。静かにビニールを剥がし、一口を齧る。空腹をソーセージが慰める。

 

 

 椅子が軋むため、まずいまずい、と焦る。妻が起きてこないか、耳を澄ました。

 

 

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