推しだけが全てだった『推し、燃ゆ』宇佐見りん


「好き」ってなんだろうって、ずっと思っていた。夢中になってのめり込めるものなんて、今までの人生の中で何ひとつなかった。「オタク」と呼ばれる彼らを内心で嘲笑していたけれど、だったら私は、彼らに誇れる何かを持っているのだろうか。

 

『推し、燃ゆ』という作品を読んだ時、ぞくっと肌の毛が粟立ったような気がした。もうこれ以上見たくなくて、でも、ページをめくってしまう。どうして本を読むだけでこんなに苦しい思いをしなければならなかったのだろう、なんて。

 

女子高生のあかりは、男性アイドルの真幸を推している「オタク」。だけどある時、彼女の推しである真幸が「ファンの女性を殴った」と炎上してしまう。

 

根も葉もない噂が広まり、彼のファンの多くが離れていった。あかりは、自分の全てを捧げても彼をファンとして支えることを決意する。

 

お金も時間も推し活につぎ込んだ彼女は、学校もバイトもやめることになった。しかし、彼女の奮闘も空しく、真幸は芸能界を引退することになってしまう。

 

「病める時も健やかなる時も、推しを推す」彼女の言葉とよく似た言葉を使う友だちを、私は知っていた。あかりの姿が重なっていく。

 

私の友だちには、いわゆる「オタク」と呼ばれる人たちが何人かいる。そして、彼らからも、私はその「オタク」のひとりだと認識しているのだろう。

 

私は内心で彼らを馬鹿にしていた。嘲笑していた。自分が好きなことになると途端に早口になる彼らを、気持ち悪いと蔑んでいた。そして、自分は違うと、一線を引いていたのだ。

 

あかりは、アイドルを追いかけること以外、何もできない。勉強もバイトもできないし、日常の最低限のことすらもできない。彼女は病名がつく障害を持っている。

 

あかりの姉は、アイドルを追いかけるばかりで勉強をしないあかりに苛立っていた。あかりの母親は、理想と違う娘に腹を立て、父親は、「いつまでも養えない」とあかりに伝えて、彼女にひとり暮らしをさせた。

 

彼らに対してイライラする。イライラしている自分に気が付いて、そして私もまた、彼らと同じなのだと気が付いた。

 

「オタク」は自分の「好き」をどこまでも追いかけていく。時には膨大な時間やお金をつぎ込んでまで。破滅するとわかっていても、やめられない人たちもいる。

 

そんな彼らは、周りから見ると不真面目に生きているように見える。誰もが必死になって支えている生活を二の次にするから。だから、イライラするし、馬鹿にする。まるでそうする権利が自分たちにあるかのように。

 

「好きなこと」を追いかけるのに、何を悪いことがある。そんなことを思っている私がいて、愕然とした。そして理解した。私がどうして、「オタク」を嫌っていたのか。

 

羨ましかったのだ。「好き」なことのためになりふり構わず振舞えるから。私にはできないから。自分がそこまで「好き」なものと出会えていないからこそ、彼らの生き様が羨ましく見えた。

 

私たちは毎日を生きることに必死で、「好き」なことを我慢する。そうしている自分を偉いのだと思い込んでいる。でも、そうやって生きることは、果たして「良い人生」だと呼べるのだろうか。好きなものすら自由に楽しめない人生なんて。

 

私は、あかりが羨ましい。働くこともできず、家族からも見放され、全てを捨てて追いかけた推しはもう、追い続けることすらできなくなった。彼女はもう、汚い部屋で朽ちていくだけ。彼女の人生は詰んでいる。

 

でも、それほどまでに「推し」を追い続けた彼女を、私は尊敬する。彼女の人生はきっと散々で、彼女自身も自分が幸せだとは思っていないだろうけれど。

 

好きなものを全力で追いかけて、その末に死ねるなら、それは幸せなことじゃないだろうか。今の世の中は、彼女のように生きたくても、それができない人ばかりなのだから。

 

 

推しの炎上

 

推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。まだ詳細は何ひとつわかっていない。何ひとつわかっていないにもかかわらず、それは一晩で急速に炎上した。

 

寝苦しい日だった。虫の知らせというのか、自然に目が覚め、時間を確認しようと携帯をひらくとSNSがやけに騒がしい。寝ぼけた目が〈真幸くんファン殴ったって〉という文字をとらえ、一瞬、現実味を失った。

 

無事? メッセージの通知が、待ち受けにした推しの目許を犯罪者のように覆った。成美からだった。翌日、電車の乗車口に駆け込んできた成美は開口一番「無事?」と言った。

 

「かなり言われてる感じ?」んしょ、と成美も携帯を取り出す。彼女が熱を上げているメンズ地下アイドルには、ライブ後に自分の推しとチェキ撮影のできるサービスがある。

 

あたしは触れ合いたいとは思わなかった。現場も行くけどどちらかと言えば有象無象のファンでありたい。拍手の一部になり歓声の一部になり、匿名の書き込みでありがとうって言いたい。

 

去年まで成美が追っかけていたアイドルは留学すると言って芸能界を引退した。三日間、彼女は学校を休んだ。

 

「でも、偉いよ、あかりは。来てて偉い」と呟く。

 

「いま、来てて偉いって言った」

 

「ん」

 

「生きてて偉い、って聞こえた一瞬」

 

成美は胸の奥で咳き込むようにわらい、「それも偉い」と言った。

 

「推しは命にかかわるからね」

 

生まれてきてくれてありがとうとかチケット当たんなくて死んだとか目が合ったから結婚だとか、仰々しい物言いをする人は多い。

 

成美もあたしも例外ではないけど、調子のいい時ばかり結婚とか言うのも嫌だし、〈病めるときも健やかなるときも推しを推す〉と書き込んだ。電車が停まり、蝉の声がふくらむ。送信する。隣からいいねが飛んでくる。

 

 

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