もっとも偉大な小説と言われた名作『戦争と平和』トルストイ


 今朝、私の隣りで夢を語っていた青年が、今は、地に倒れ伏したまま、ぴくりとも動かない。

 

 

 私はどうしてこんなところにいるのだろう。怒号や断末魔の鳴り響く青い空を見上げて、私はふと、そんなことを思った。

 

 

「ああああ!」

 

 

 叫び声をあげて、敵国の兵士の制服を着た男が、武器を掲げて私に迫ってきている。

 

 

 私から零れていく命の温かさを刺し貫かれた腹に感じながら、私の心をよぎったのは一冊の小説だった。

 

 

 『戦争と平和』。トルストイ先生の、「世界でもっとも偉大な小説」だと謳われた作品だ。

 

 

 文学に耽溺した学生の頃からずっと読みたいと切望してきたが、結局、とうとう念願叶って読めたのはつい数か月前のことだ。

 

 

 ロシアに君臨する貴族の興亡を綴った作品であり、登場人物は五百人以上もいるという。

 

 

 自由に放蕩に耽っていた身から亡くなった父の財を継いだことで突如稀代の金持ちとなったピエールが主役だけれど、私が注目したのは別の、二人の男だった。

 

 

 ひとりは、アンドレイ・ボルコンスキイ。冷静な好人物で、ナポレオンとの戦いではロシア軍の元帥クトゥーゾフの副官を勤めていた。

 

 

 そして、もうひとりはニコライ・ロストフ。士官として戦いに参加した若者である。

 

 

 当時のロシアはフランスと戦争をしていた。フランス軍の指揮はナポレオン・ボナパルト。フランスを導く、言わずと知れた英雄だ。

 

 

 戦争に出ることは男の誉れだと考えられていたから、身重の妻を抱えるアンドレイも、恋人を持つニコライも、自ら戦争に志願する。

 

 

 私が長大な物語の中で彼らの姿を見たのは、私が彼らと近しいような感じがしたからだ。

 

 

 アンドレイは冷たいと評されるが、多くの人から慕われる魅力を持った人物だった。戦争でも、優秀な副官として尽力する。

 

 

 しかし、彼の内面に秘めていたのは、子供じみた英雄願望だ。彼は自分が軍の危機を救う妄想に浸り、冷静な仮面の下でその心地よさに浸っていたのだ。

 

 

 対して、ニコライは若者らしい蛮勇から、国を守るという義に駆られて戦争に参加する。

 

 

 けれど、現実は厳しかった。軍の規律で揉め事になった挙句、生き残ったものの、あまりに情けない姿を晒してしまう。

 

 

 痛みに悶えながら、彼は思うのだ。どうして自分はここにいるのだろう、と。

 

 

 戦争は人を狂わせるとはよく言ったもので、アンドレイの幼稚な願望はまさにそれを体現しているかのよう。

 

 

 義によって、あるいは愛国心から、はたまた義務感、もしくは野心、野蛮な欲望、家族への愛。

 

 

 あらゆる理由があれど、戦争は彼らを熱狂させた。戦争の本当の恐ろしさは、そこにあるのではないかと私は思う。それはある種の薬のように、内にある本質を暴き出すのだ。

 

 

 読みながら、私は彼らとともに戦場にいた。ナポレオンの兵士が迫ってくるのを、私は彼らとともに敵意の目を持って眺めた。

 

 

 傷ついて悶え苦しむニコライを、私は思わず抱きしめたくなった。彼は自分の最期を明確に感じた時、自分がどれほど愛されていたかを知る。

 

 

 人は愚かだ。平和の中に暮らしていても、誰もそのことに気が付かない。戦争がなければ、平和もまた存在しないのだ。

 

 

 『戦争と平和』は対比じゃない。光と影と同じように、それは寄り添っている、背中合わせのもの。

 

 

 「平和のために」と言ったその口で、敵の兵士に怒号を浴びせる。平和なんて、どこにもないじゃないか。

 

 

 ようするに、結局、自分だけが幸せなら、それは「平和」なのだ。平和は、私たちの心にしか存在しない。

 

 

 薄れゆく意識の中で、私は私の命を奪った彼を見た。彼もまた、私も見ていた。

 

 

 彼はまだ年端もいかない少年だった。彼は泣いていた。私もまた、泣いていた。

 

 

 身体中の力がなくなる。私の膝が崩れ落ちて、頬が地面とぶつかった。けれど、痛みはなかった。ああ、なんて平和なんだろう。私はそのまま、噛みしめるように目を閉じた。

 

 

戦争と欲望

 

 1805年の7月、皇太后マリヤ・フョードロヴナのお気に入りとしてその名を謳われた女官アンナ・パーヴロヴナ・シェーレルは、自邸の夜会に一番先に乗りつけた顕官ワシーリイ公爵を迎え入れた。

 

 

 彼はアンナ・パーヴロヴナの前に歩み寄ると、香水を振りかけた艶やかな禿頭をかがめて、その手に接吻し、それからゆったりとソファに腰を下ろした。

 

 

「何よりもまず伺いますが、お身体の具合はいかがですかな?」と公爵は言ったが、その口調には、礼儀と同情の陰から、冷ややかな無関心と、それに嘲笑さえちらとうかがわれた。

 

 

「どうして健やかになることができまして……心が苦しみ悩んでおりますのに? 私たちの今の時代に、感じやすい心を持ちながら、平気でいるなんてそんなことができますかしら?」

 

 

 ワシーリイ公爵はいつも、役者が古い台本のセリフを読むみたいに、物憂げな喋り方をした。アンナ・パーヴロヴナ・シェーレルの方は、それとは逆に、生気と熱情に満ち溢れていた。

 

 

「今夜はこちらにとっても興味ある人物が二人お見えになりますのよ。ひとりはモンテマール子爵と申しまして、フランスの名門のひとつでございますわ。もうひとりはモリオ僧正。ご存知でしょう?」

 

 

「ああ! そりゃ大いに楽しみですな」と公爵は言った。「あ、そうそう」と、彼は言い添えた。ところが実は、これを聞き出すことが、彼の今夜の訪問の主要な目的だったのである。

 

 

「皇太后はフンケ男爵をウィーンの一等書記官に任命なさりたいご意向と承りましたが、ありゃ本当ですかな?」

 

 

 ワシーリイ公爵は、男爵に決めようとしていたこの地位に、自分の息子を推したいと望んでいたのである。公爵はむっつりと黙り込んだ。

 

 

「それはそうと、あなたのご家族のことでございますけれど、お宅のお嬢様は社交界にデビューなさってから、まぶしいほど美しいお嬢様だと、たいへんな評判でございますわ」

 

 

 公爵は尊敬と感謝のしるしに頭を下げた。

 

 

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