司馬遼太郎先生の『竜馬がゆく』を読んで以来、私は坂本龍馬という男の人柄に惚れた。しかし、多くの人が歴史小説と称するその作品は、私にとっては一種の恋愛小説である。
坂本龍馬といえば幕末に活躍した武士であり、仲違いしていた薩摩藩と長州藩に同盟を組ませ、大政奉還を成し遂げた人物だ。そうした歴史上の視点もまたおもしろいが、生憎と私は歴史は眠くなっていかんのである。
一方で、私が好むのは、龍馬を取り巻く多くの女性との恋愛関係だった。史実では、龍馬は美男でないが、その人柄ゆえか実に女性に人気があったらしい。道場主の娘である千葉さな子などが挙げられるだろう。
だが、正式に龍馬の妻とされているのは、楢崎龍という女性である。お龍という呼び名が通じているから、そう呼ぶことにしよう。
彼女の存在がひと際輝くのは、薩長同盟を成し遂げた翌日のこと。志士の同志とともに寺田屋にいた龍馬は幕府の役人から襲撃を受けた。
そのことにいち早く気付いたのが、入浴中だったお龍である。彼女は服を着る間も惜しんで龍馬に危機を知らせ、裏口から彼らを逃がした。
彼女がいなければ、龍馬の歴史はここで終わっていたかもしれない。彼女の存在が、龍馬の命を救ったのだ。この出来事の意味は、とても大きい。
また、彼らは日本で初めて新婚旅行をしたとして知られている。龍馬の傷を癒す目的で薩摩に旅行に出かけたのである。温泉を巡ったり、天逆鉾を抜くイタズラなどをしたらしい。
龍馬と彼女との関係をより知りたいのであれば、司馬遼太郎先生の『竜馬がゆく』よりも、風野真知雄先生の『お龍のいない夜』をおすすめしよう。
坂本龍馬の生涯を綴る『竜馬がゆく』に比べ、『お龍のいない夜』は龍馬とお龍の関係を中心に、美しい恋愛譚へと昇華させている。
タイトルの意味、『お龍のいない夜』とは、どういう意味だろうか。
慶応3年11月15日、現代では近江屋事件と呼ばれている事件。坂本龍馬は暗殺された。犯人はわかっていない。何者かの襲撃を受け、彼は新たな日本の誕生を見ることなく、この世を去ってしまった。
その頃、お龍は下関の海援隊の拠点に、妹ともに身を寄せていたという。彼女はその地で、夫、龍馬の訃報を受け取った。彼らが最後に会った二か月後のことである。
「もしも」という言葉は歴史を語る上で何の意味がないことは百も承知しておるのだが、それでも、思わざるを得ない。
もしも、近江屋事件が起きたその時にも、お龍がいたならば、彼の結末は変わっていただろうか、と。寺田屋で、お龍の行動が彼の命を救った時のように。
お龍のいない夜。そう、近江屋事件が起こったその夜、お龍は彼の側にいなかったのだ。龍馬は命を落とし、お龍は寡婦となった。
龍馬の死後、彼女は各地を転々とし、再婚などもしたが、やがて落ちぶれ、貧困のままに生涯を終えたという。晩年でも、彼女は「龍馬の妻」であることに誇りを持っていた。
歴史の上に、男は多く名を遺している。しかし、彼らの側には必ず女がいるのである。お龍は、その生き様美しく、夫、龍馬を愛し続けた。彼女がいたからこそ、龍馬の夢見た今の日本があるのだ。
二匹の龍
野太い男の声がして、誰だろうと玄関まで出て来ると、お龍は夏の重く濃い闇の中へ燭台を突き出した。ろうそくの揺れる炎の中に浮かんでいたのは大きな男だった。
土間から板の間へと上がりながら、「中岡くんは、まだ来てないですか?」と、かすれたような声で訊いた。
「中岡さま? いえ、まだ」
「望月くんも?」
「はい。まだ、どなたも来てはりまへん」
「そうか」
中へ入ろうとする男の前に立ち、お龍は、「どちらはんどす?」と、訊いた。この家には、勤皇の志士たちが隠れ住んでいる。初めて見る人は警戒しなければならない――と、母のお貞から言われている。
「おれかい?」
「へえ」
「才谷といいます。大丈夫。怪しい人ではないよ。新選組でもない。こんなに汚い新選組はいないさ」
才谷は笑いながらそう言い、左右の廊下を見下ろすと、まっすぐ奥の十畳間に入っていって腰をおろした。
「腹が減った。なんでもいいから食わせてもらえないかな」
「では、支度してきます」
お龍はさっきまでいた台所にもどった。いつもは母のお貞と妹のお起美が、ここに来る志士たちの面倒を見ている。ところが二人とも葬儀の手伝いに行かなければならなくなった。そこで、お龍が、頼まれて留守番に来ていたのである。
お龍は、柳馬場三条下ルの家で生まれ育った。父は、青蓮院宮の侍医も務めるくらい診立ての上手な医者だった。その父が病死してしまうと、たちまち一家は離散した。
この先、自分はどこまで落ちぶれるのだろう。扇岩で客を取るまで落ちぶれるのだろうか。そこまでするくらいなら、誰か商人の妾にでもなったほうがましだろう。
ちょっとくらい器量がよくても、ひどい目に遭う女が山ほどいる。器量にあぐらをかいていてはいけない。母のお貞は、「いい人、見つけてやる」と言っているが、いい人ほど早く亡くなっていく。お父はんのように。
お龍は洗い物をしながら、沼に放った石みたいにずむずむと気持ちが沈んだ。
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