天才物理学者の前に立ちはだかる完全犯罪『聖女の救済』東野圭吾


「完全犯罪ってのは、可能だと思うか?」

 

そう聞いてきた友人に、僕は首を傾げる。会話の切り出し方としては、あまりにも唐突だった。だが、彼には時々、そんなところがある。

 

「完全犯罪、というと」

 

「誰にも解き明かすことができなかった未解決事件。現実だと、『三億円事件』とか『切り裂きジャック』とか、じゃないか」

 

「それがどうかしたのか?」

 

「いやな、昨日、こんな本を読んだんだが」

 

そう言って彼が取り出したのは、東野圭吾先生の『聖女の救済』だった。その作品ならドラマで見たことがある。ガリレオシリーズと呼ばれる一連の作品のひとつだったはずだ。

 

ひとりの男性が自宅で事切れていた。家には鍵がかかっていて、誰かが侵入した形跡はない。

 

容疑者と目されているのは、家の鍵を預かっていた第一発見者の女性と、被害者の妻。

 

しかし、第一発見者の女性には動機がなく、犯行の方法がない。。妻には動機はあるが、完璧なアリバイがある。

 

犯人は誰か。そして、その犯行の方法とは何か。それを警察と、物理学者が解き明かす、というものだ。

 

「今まで『ガリレオシリーズ』では物理学者の湯川がトリックを解き明かしてきたわけだけど」

 

「うん」

 

「この作品では『虚数解』だって言ってるんだ。つまり、答えがない。完全犯罪ってことだ」

 

「へえ。じゃあ、結末はどうなんの?」

 

「それは自分で読んでみろよ。とにかくさ、それを読んで考えたんだ。完全犯罪ってのは、本当に可能なのかって」

 

「でも、現実に完全犯罪って起こっているわけじゃん。じゃあ、できるんじゃない?」

 

「どうすれば?」

 

「たとえば、犯行が見つからない、とか。そもそも解決する事件そのものが露見しない」

 

「でも、現代社会だと見つかるんじゃないか。人がひとりいなくなってもニュース沙汰になる時代だぞ」

 

「だったら、事故に見せかければいいんじゃない? 事故なら、犯人が捜されることもないし」

 

「なるほど。その手があったか」

 

彼はうんうんと頷いた。どうやら、疑問は解決できたらしい。でも、どうして彼はそんなことを聞いてきたのか。気になったから、質問してみることにした。

 

すると、彼はたいしたことじゃないとばかりに肩を竦める。

 

「言っただろ。小説を読んで気になったからだ。完全犯罪について出てきたからな」

 

「それだけか?」

 

僕が聞くと、彼はやれやれとばかりに首を振って、にやりと笑った。その飄々とした態度はいつも通りだけど、目が笑っていない。

 

「実はな、他にも理由がある。俺な、ちょっとやってみようかと思っているんだよ、完全犯罪」

 

「は? 何言ってんの」

 

「信じらんねえだろ。でも、ちょっと思ったんだ。ほんの好奇心だよ、好奇心」

 

「おいおい、冗談だろ。もしやるとして、それはいつで、誰をやるんだよ」

 

これは内緒にな。彼はそう言って、僕に耳を貸すよう示した。僕は恐る恐る耳を彼の方に向ける。彼は僕の耳元で言った。

 

「今だよ」

 

その声が、僕が最期に聞いた音になった。

 

救済の結末

 

プランターに植えられたパンジーが、小さな花をいくつもつけていた。他の鉢植えにも後で水をやっておかねば、とガラス戸越しにベランダを眺めながら綾音は思った。

 

「俺の話、聞いてるのか」背後から声をかけられた。綾音は振り返り、にっこりと笑った。

 

「聞いてるわよ。聞いてるに決まってるじゃない。ちょっとぼんやりしちゃって」

 

「ぼんやり? 君らしくないな」

 

「だって、驚いたもの」

 

「そうかい? でも君だって、俺のライフプランについてはよく知っているはずだろ」

 

「それは、わかってるつもりだったけど、あなたにとって、それはそんなに重要なことなの? 子どものこと」

 

すると義孝は小馬鹿にするように苦笑し、一度横を向いてから彼女に目を戻した。彼はゆっくりと頷いた。

 

「重要なことだ。子どもを持てないのなら、結婚生活自体に意味がない。子どもを持てる見込みのない生活を続けるわけにはいかない」

 

「結局、こういうこと? 子どもを産めない女には用がない。だからさっさと捨てて、産める女に乗り換える――それだけのことなの?」

 

「なあ綾音、いったい何が不満なんだ。君だって、望むものは全部手に入れたわけだろ。あれこれ思い悩むのはやめて、新しい生活のことを考えろよ」

 

綾音は彼から目をそらし、壁に目を向けた。義孝に言われるまでもない。子どもを産むことは、彼女自身の夢でもあった。だがどういう神の悪戯か、その能力に恵まれなかった。

 

「ねえ、ひとつだけ確認していい? 私への愛情は? それはどうなったの?」

 

「それは変わっていない。そのことは断言できる。君が好きだという気持ちに変わりはないんだ」

 

綾音には、その言葉はまるっきりの嘘に聞こえた。しかし彼女は微笑んだ。そうするしかなかった。

 

綾音は義孝の背中を見つめた。その背中に向かって、あなた、と心の中で呼びかけた。

 

私はあなたを心の底から愛しています。それだけに今のあなたの言葉は私の心を殺しました。だからあなたも死んでください。

 

 

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