「悪」として育てられた少年『悪と仮面のルール』中村文則


もしも、ひとりの人間を「悪」として育てようとしたのなら、その人間はどんな人間になるのだろうか。「悪」の英才教育を受けた人間は、どんな人生を歩むことになるのだろうか。

 

中村文則先生の『悪と仮面のルール』という作品には、そんな疑問の答えが書かれていたように思う。人間の善悪という領域を、人間自身が踏み込むならば。

 

文宏に、ある時、父は「重要なことを話す」と言った。それは、彼を世界に混乱をもたらすひとつの『邪』として育てるという、奇妙な話だ。

 

父とともに、ひとりの少女がいた。香織というその少女は、養女として引き取られ、同じ家で暮らすことになる。そして彼女は、彼が『邪』となるうえで重要な役割を果たすことになるという。十四歳。父が告げたその年齢こそが、その分岐点だというのだ。

 

文宏の心には、ずっとそのことが引っかかっていた。だが、心は抗えない。文宏は次第に香織に惹かれるようになり、愛するようになっていく。

 

だが、十四歳が近づいた時、文宏は、香織が父に呼び出され、辱められていることに気付く。香織を守るため、文宏は父の殺害を決意した。

 

「悪」とは何か。そもそも、何が「善」で、何が「悪」なのか。私はこの本で読んでいて、そう疑問に思わないでいられなかった。

 

ひとりの人間を『邪』として育てるという、忌まわしい家系の風習。息子の心を揺さぶり、解けない呪いをかけた父。香織を守るためならば、あらゆる手段であっても駆使する文宏。

 

世間の目で見るならば、彼らは言うまでもなく「悪」であろう。社会を乱す目的として『邪』を生み出す。文宏も殺人という罪に手を触れ、そのことに躊躇いを示すわけでもない。

 

だが、香織からしてみれば、どうだろうか。この作品は文宏の視点で描かれていて、彼の行動を香織がどう思っていたかを知る術はない。知っていたかどうかすら、確かではない。

 

文宏は香織を守るため、彼女を害そうとする人間を次々に手にかけていく。世間的に見れば「悪」として断罪される彼の行動は、さて、その真意を知っている読者からしてみれば、果たして「悪」として映るだろうか。

 

昔から、私はヒーローものの特撮がどうしても好きになれなかった。ひとりの怪人を、何人かのヒーローが「正義」という名のもとに倒す。けれど、それはどこか、いじめのような醜悪さを持っているような気がするのだ。

 

思うに、「善悪」は私たちが思っているほど強固なものではない。それはいつだってどっちつかずで、ふらふらと手のひらを返して回る。

 

一方から見れば「悪」であっても、もう一方から見れば「善」ということだって珍しくはない。いやむしろ、多くがそういうものだろう。誰もが自分の行動を「善」だと思っていて、「善」と対立するのは、また別の「善」だ。

 

作中で、文宏に対して、彼の兄が取引を持ち掛ける場面がある。しかし、取引とは名ばかりで、その内実はあまりにぞっとする。

 

彼は言うのだ。「自分の中で最上のものを今まで守り抜いてきたのは、それを完膚なきまでに自らの手で破壊するという背徳を感じたいからではないか」と。

 

なるほど、たしかにそれは、『邪』としての集大成だろう。彼らが目指した完成形は、その到達点にあるのかもしれない。『邪』として育てられた文宏が最後に選ぶ結末は、果たして。

 

つまるところ、人間を「悪」に仕立て上げることなんて、できないのだろう。「善悪」そのものがひどく曖昧なものなのだから、そもそもそこに境界を持ち込むこと自体が間違っているのかもしれない。

 

昔の思想家は言った。「人は生まれながらに善性を持つ」と。また別の思想家は言った。「人は生まれながらにして悪である」と。

 

「善」であれ、「悪」であれ、それが人間であることに変わりない。いや、人間だからこそ、明確な黒も白もなく、ただただ灰色の、混じり合った出来損ないにしか、私たちはなれないのだろう。

 

 

愛する人を守るために

 

「今から、お前の人生において重要なことを話す」

 

十一歳の時、父が僕を書斎に呼んでそう言った。

 

「お前の教育について。しかしそれは、お前に期待してというわけではない。この世界に、ひとつの『邪』を残すためだ。お前は私の手により、ひとつの『邪』になる。悪の欠片と言ってもいい」

 

ドアが開き、見たことのない少女が入ってくる。父は少女が入ってきたことに、どのような反応も示さなかった。少女は僕と同じくらいの年齢で、白いワンピースを着ていた。

 

「まず、お前は有能になる必要が有る。力のある人間が『邪』になる時、それはより大きな『邪』となるからだ。お前は私の教育により、優秀な人間になるだろう。そして十四歳になった時、お前に地獄を見せる」

 

お前が、この世界を否定したくなるような地獄を。無残で、圧倒的な地獄を。その少女にはその地獄の時、重要な役割を果たしてもらうことになる。

 

「この少女は、この屋敷にお前と住むことになる。お前と少女はこれから親密にならなければならない。これから見る地獄のために、お前が『邪』となるために。……だが、お前とその少女が結ばれることはない。絶対に」

 

父は背を向け、もう僕や少女のことを忘れたように、棚に並んだ書物のひとつを手に取り、奥へ続く部屋のドアを開けた。巨大な鹿の首の剝製を、白いワンピースの少女はじっと見ている。

 

だが、父は間違っていた。僕は、もう既に『邪』だったのだ。僕は父をどこかに消すことを常に考え、その計画をずっと、毎日のように夢想し続けていた。

 

 

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