信仰、戦争、差別『逃亡者』中村文則


 自分の鼓動が大きく聞こえる。ぞっとするほど寒く、それなのに汗ばんでいる。いやだ。この先を見たくない。そう思うのに、私の目は文字を追いかけ、私の指は次のページをめくるのだ。

 

 

 久しぶりの休日だった。梅雨に入り、蒸し暑い部屋から逃げるように外に出た。

 

 

 先日降った雨の匂いがつんと鼻をつく。しかし、夏が近づいてくるにつれて暑くなっていく気候は、なんとも不快なものである。

 

 

 天気予報では、今日の昼から雨が降るらしい。しかし、曇ってはいるが、雨が降るような気配はなかった。

 

 

 暑い。暑い。私はシャツの胸元をぱたぱたと扇いで風を送りながら、暑さから逃れようと足を進める。

 

 

 辿り着いたのは、この村に唯一ある図書館だった。扉を開けると、蔓延した涼しい空気が私の汗を乾かした。

 

 

 図書館には誰もいない。いつものことだ。ここの図書館で人を見かけたのはほんの数回しかない。だからこそ、気楽に過ごせるお気に入りの場所だった。

 

 

 図書館に来たからには何か読もうか、と、本棚の間をふらふらと彷徨う。そうだ、せっかくだから、新刊コーナーとかもいいかもしれない。

 

 

 というわけで、図書館にある本の中でも入り口に一番近いところに設置されている新刊コーナーの棚を眺める。

 

 

 ふと、目についたのは、中村文則という作家先生の作品だった。新刊コーナーに何冊か収められている。

 

 

 その作家の名前は聞いたことがあった。けれど、作品を読んだことは一度もない。気になっていたのは確かだし、この機会に読んでみるのもいいかもしれない。

 

 

 どちらを読むか迷った末に、私が選んだのは『逃亡者』という作品だった。理由は特にない。単純に、そちらの方が後から入ってきた作品らしい、としか。

 

 

 椅子に座り、カバンを置いて、本のページをめくる。物語はひとりの追われている男が追い詰められている場面から始まった。

 

 

「一週間後、お前が生きている確率は4%だ」

 

 

 追手の男は、彼にそう告げて去っていった。

 

 

 男が追われている理由。それは、”悪魔の楽器”と呼ばれているトランペットを、男が持っているからだった。

 

 

 それは亡き恋人との約束を守るため。男の恋人は、差別の熱狂の波に巻き込まれて亡くなった。

 

 

 小説家を目指していた彼女の作品。書き上げるためには、男と彼女の歴史、そして、トランペットの歴史が必要だった。

 

 

 長崎の信仰の悲劇を抱えた男と、抵抗の歴史を持つヴェトナム人の女。第二次世界大戦で”悪魔の楽器”を吹き鳴らして作戦を成功させたトランぺッターの”鈴木”。

 

 

 時代も国も異なる彼らの辿ってきた歴史が、彼女の物語によってひとつに結ばれていく。

 

 

 もう読みたくなかった。それは、あまりにも救いのない、差別の物語だった。

 

 

 戦争。性差別。人種差別。隠れキリシタン。歴史の教科書の無機質な年号表の裏側に隠された、あまりにも残酷な真実。

 

 

 私たちが必死に目を反らしてきた残酷な罪を、その本は「目を反らすな」と糾弾してくるのだ。

 

 

 目を塞ぎたかった。耳を塞ぎたかった。けれど、その本はそんな甘えを許してくれない。凄惨な歴史が、生々しく描かれて、私の頭の中で映画のように再現されていく。

 

 

 それは歴史の中の出来事だ。現代に生きる私たちは、すでに過去の罪として清算したつもりでいる。終わった出来事のつもりでいる。

 

 

 だけど、そうじゃない。歴史の中で狂気のままに罪を犯してきた彼らの精神は、今もなお、受け継がれている。

 

 

 道徳や倫理観のきれいごとで覆い隠した私の心の奥底にある、あまりにも醜悪な精神を、その小説は丸裸にした。

 

 

「どうだ! 見たか! もっとよく見ろ! こんなにも醜悪な心が、貴様の正体だ!」

 

 

 彼は私の汚れ切った心を手に持って、目を反らそうとする私の眼前にそれを突き付けた。私はおぞましさに身を震わせる。けれど、それは間違いなく、私の心なのだ。

 

 

 逃亡者は、現代に生きる私たちだ。

 

 

 「差別はいけない」と声高々に叫びながらも差別的な考えを捨てることなく抱えたまま、歴史を美化し、醜悪な罪から必死に目を反らしている。

 

 

 それを「逃げ」ではなく、なんと言おう。私たちは追いかけてくる「罪の意識」から必死に逃げて、これからも逃げ続けるのだろう。自分の醜悪さに向き合いもせず、口だけのきれいごとを繰り返して。

 

 

 本を閉じて、私は逃げるように図書館を出た。夏も間近だというのに、今は、ひどく寒気がする。何かに追いかけられているような、そんな寒気が。

 

 

逃げる男

 

 犬が吠えている。この古びたアパートの前の痩せた木に、いつも繋がれた犬。だがその犬の苦しげな鳴き声が、不意に止んだ。

 

 

 やがてこのアパートの軋む木の怪談を、明確に上がる音がした。どうすればいいかわからないまま、近づいてくる音に耳を澄ますことしかできなかった。

 

 

 僕の居場所が、やはり知られたのかもしれない。足音がさらに近づき、僕の部屋の前で止まった。

 

 

 背の高い男が入ってくる。暗くてよく見えないが、知らない男。男は僕に気付き、唇の片側を歪めた。男が僕の部屋を見渡す。

 

 

「……あれはどこにある?」

 

 

 なぜ僕の居場所が知られたのだろう。わからない。こんなことが、起こるはずはないのに。いずれにしろ急すぎる。

 

 

「……あれとは?」

 

 

「名作”ファナティシズム”。トランペット」

 

 

 第二次大戦中、日本軍のある作戦を、劇的に成功させた伝説の楽器。日本の軍楽隊に所属した天才トランぺッターが所有していた、通称”悪魔の楽器”だよ。君が持っている。

 

 

「何のことか……」

 

 

「本来、日本の軍楽隊の遺族に返還されるはずだったものが、何者かによって盗まれた。この楽器の噂は瞬く間に広がり、今や闇で懸賞金までかけられている」

 

 

「知らないですね。何のことかわからないですよ」

 

 

 僕は首を振って言う。男の座るソファを見ながら。楽器はその下にある。

 

 

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