悪なんていない。ただ、そうなっているだけ『モダンタイムス』伊坂幸太郎


「『モダンタイムス』って知ってるか。伊坂のじゃないぞ。チャップリンの。ほら、あの歯車でくるくるするやつ」

 

 

「ああ、映像は見たことある。映画自体はないけどな。でも、それがどうした」

 

 

「いやな、俺は昔、あのチャップリンの姿を見て笑っていたことを思い出したんだ」

 

 

「そうか。じゃあ、今のぼくたちを見たら、幼いお前は爆笑するだろうな」

 

 

 おいそこ、うるさいぞ。野太い声がぼくと友人の会話に割り込んでくる。ぼくと友人は口を閉ざして目の前の作業に戻った。

 

 

 ぼくたちが作業に戻ったのを見て、巨躯の男はふんと鼻を鳴らすと、別のところへと行った。友人が口パクで、シュレック、と呟く。

 

 

 緑じゃないし、優しくもないけどな。ぼくはため息を吐き出す。彼は監視役だった。ぼくたちが仕事を休んでいないか、見張っているのだ。

 

 

 ベルトコンベアの上を部品が流れてくる。友人はその部品に欠損がないか目で見て調べる。ぼくはボタンを押す。それだけの作業だ。

 

 

 『私たちの仕事が、世界を創る』。頭上に貼り出されているポスターには、そんなことが書かれていた。

 

 

「『リヴァイアサン』って知ってるか?」

 

 

「なんだ、海に住む怪物か」

 

 

「無数の人間が集まった怪物のことだ。俺たちはひとりひとりが怪物の一部品なんだ」

 

 

「へえ、じゃあ、今、俺たちがやっているのは消化器官か何かか」

 

 

「そうかもな」

 

 

 うへえ、と友人は顔をしかめる。怪物の中で無数に蠢く人間たちを想像したのかもしれない。

 

 

 目を開けると、脈動する赤い臓器が見えた。それはまるで、生きているかのように拍を打つ。

 

 

 いや、生きているのだろう。ぼくたちひとりひとりの手によって、それは紛れもなく生きているのだ。

 

 

 ここは怪物の腹の中だ。ぼくたちはそこでこの怪物の消化器を動かしている。作っている部品は、気がつけば、粘性を帯びた気味の悪い生物に変わり果てていた。

 

 

 怪物が生きられなくなると、ぼくたちも生きられない。だからこそ、ぼくたちは怪物が生き長らえるために働くのだ。

 

 

 その怪物の名を、『社会』と呼ぶ。

 

 

社会の部品

 

「『モダンタイムス』を知っているか」

 

 

「チャップリンのだろ」

 

 

「いや、そっちじゃない。伊坂幸太郎先生の小説の方さ」

 

 

「ああ、そっちの」

 

 

 伊坂先生の『モダンタイムス』を読んだのは随分と前のことだ。けれど、『魔王』の登場人物が出てきて、どこか嬉しかったのは覚えている。

 

 

「あれは俺たちの話だ。俺はそう思ったね」

 

 

「お前にも超能力があるってことか?」

 

 

 あればいいけどな。そうしたら、あの監視役も。彼は肩を竦める。いや、そうじゃないんだ。そうじゃなくてな。

 

 

「俺たちは監視されているんだよ、いつだってな」

 

 

 そうだな。ぼくは視線を監視役に向けながら頷く。しかし、彼は首を横に振った。

 

 

「違う。あいつも俺たちと同じだ。俺たちを監視する仕事を休んでいないか、監視されている」

 

 

「じゃあ、その根っこは誰なんだ。誰がぼくたちを監視しているんだ」

 

 

「決まってんだろ、社会だ」

 

 

 彼は声をひそめる。見つかったら、ただではすまないとでも言うように。

 

 

「社会は一体の巨大な怪物だ。どれだけ俺たちが個人を尊重しようとしても、怪物にとって俺たちはただの部品でしかない」

 

 

 社会にもっとも都合がいいのは何か。それは、部品が意思を持たず、ただ義務を果たすことだ。友人はそう言って、どこか遠い目をする。

 

 

「俺はさ、子どもの頃、ヒーローに憧れたんだ。あんなふうになりたいってな」

 

 

 悪者を倒して、世界を救って。でもよ、社会に出てみれば、どこにも悪者なんていないじゃないか。いや、それどころか。

 

 

「社会が怪物だってんなら、怪人たちこそが、ヒーローになるんじゃないのか」

 

 

 おい、そこ、うるさいぞ。監視役の声に、私と友人は口を閉ざし、作業に戻った。ぼくたちがショッカーなら、彼は怪人かな。いや、あいつもショッカーだろ。そんなことを、囁きながら。

 

 

我々は監視されている

 

「勇気はあるか?」

 

 

 私の前で、見知らぬ男がそう言ってきた。自分のマンションに、見知らぬ男がいたのだ。私はロープのようなもので、椅子に固定されている。

 

 

 突然のことで、頭が混乱した。ここが自分のマンション、つまり、自分の家だということは間違いがなかった。

 

 

 電気を点けた直後、急に後ろから羽交い絞めにされ、脇腹を殴られた。身体から力が一瞬にして抜け、フローリングに膝をつく。気付けば、腕を下に伸ばした格好で、ダイニングの椅子に縛りつけられていた。

 

 

 寝室へとつながる扉が開いていたので、覗くと、ベッドの掛布団はきれいにまくられていた。無人なのは明らかだ。妻がいない。

 

 

 なるほど、と私はだんだんと何が起きているのか、察し始めた。四年前、つまり二十五歳の時にも似たようなことがあったのを思い出したのだ。

 

 

「君は、俺を痛めつけるように言われた。雇われた。そうですよね?」

 

 

 電話が鳴った。「君が代」のメロディが流れる。私の着ている背広のポケットの中に入っている携帯電話に着信があるのだ。

 

 

 彼はその着信画面を見た後で、「俺に仕事を依頼してきた本人からだよ」と鼻の穴を膨らませた。電話機が、私の左耳に当てられる。

 

 

「濡れ衣だよ。どうせ、あれだろ? また、俺の浮気を疑ったんだろ?」

 

 

 私は、電話をかけてきた妻の佳代子に言う。

 

 

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