毎朝、鏡を見るたびに不安になる。鏡に映る自分の顔が、虎になってやしないか、と。そう思うようになったのは、そう、あの作品に触れた、その時からだった。
『山月記』という名のついたその作品を読んだのは、国語の授業でのことである。教科書の中に、その物語はあった。
芸術家としての道に挫折し、苦悩した男が、姿を変じて一頭の虎になってしまった、という。李徴の悲しき物語は、当時の私の心を強く打った。
李徴の「虎」は、彼の膨れ上がった自尊心なのだという。彼の心中で抑えきれぬほど育った自尊心は、やがて彼の姿を虎というケダモノに変えてしまった。
それは、果たして物語の中だけのことなのだろうか。私には、決してそうは思えなかった。というのは、この物語に触れたことで、私は気付いてしまったからだ。私自身の心にも、ケダモノがいるのだということに。
当時の私は、作家に憧れていた。孤独を慰めるために読書をするようになり、やがて私は物語の世界に親しむようになった。
誰よりも本を読んでいくにつれて、やがて私自身、物語が書けるのではないか、と、そんな野望が胸の内で首をもたげている頃だった。
ある時、私は友人から見せられたものがある。携帯に書かれた短い小説であった。よく本を読んでいた私が何を思うか、感想を聞きたかったのだろう。
私はまず、友人から作品を審美する相手として選ばれたことを誇らしく思い、まるで自らが優れた審査官であるかのような傲慢な態度で作品に目を通した。そして衝撃を受けたのである。
その友人の小説は、短いながらも、構成がしっかりと練られており、またアイディアも面白かった。一個の作品として確立していたのである。
だが、当時の私は、それを褒めることもなく、友人に返した。「これは小説ではなく詩である」というような、戯言とともに。当時の私は、長篇こそが小説であると信奉していたのだ。
だが、今にして思えば、あの瞬間、私は完全に敗北を自認していたのである。これは優れた作品であると、私は心の内で理解していた。そのうえで、口からは否定の言葉を吐き出したのだ。
それはまさしく、私の内に棲みつくケダモノが首をもたげた瞬間であった。私の自尊心が、友人が自分よりも優れた作家の才能を持っていることを認めたくなかったのである。
今になって、その頃のことを、よく思い出すようになった。当時の私の自尊心というケダモノは、私を小説を愛する者として認めてくれた友人の信頼を裏切り、その優れた作品を自らを守るためだけに否定した。
それは決してしてはならないことであった。もしかしたら、友人は、私の言葉に傷つき、作品を書くのを諦めてしまったかもしれぬ。将来生まれるはずだった作品を、私が潰してしまったかもしれないのだ。
私の心にも、ケダモノが潜む。それは李徴の自尊心にも負けず劣らない、醜悪で残酷なケダモノである。私が手綱を握り切れなかったがゆえに友人に牙を向けたその怪物の存在を、私は知っている。
ああ、私はこれから、どれだけ時を重ねようとも、あの瞬間のことを忘れはしないだろう。今となっては遅いと断じつつも、私の中の後悔は決して薄まることはない。
鏡の前に立つ。ああ、私は今日もまだ、人のままだ。安堵している心のどこかで、同時に私は悲嘆に暮れている。今日もまだ、人のままだと。
顔を覆う獣毛も、牙も、爪もない、つるんとした人間の間抜けな表情。その下に醜悪なケダモノを飼う、怪物の顔だ。
いっそのこと、虎になれればどれほどよいだろう。私にだけ、私の顔が怪物に見えているのだ。後悔と罪の意識に苛まれるという私の贖罪は、他の誰にも知る由のない。
今日も私は、鏡の前に立つ。そこに映る怪物の顔を凝視する。私はほうと、絶望の息を吐いた。ああ、ようやく私は、虎になれたのだ。
虎の正体
隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むとろこ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。
いくばくもなく官を退いた後は、故山、虢略に帰臥し、人と交を絶って、ひたすら詩作に耽った。しかし、文名は容易に揚らず、生活は日を追うて苦しくなる。
李徴は漸く焦燥に駆られてきた。数年の後、貧窮に堪えず、妻子の衣食のために遂に節を屈して、再び東へ赴き、一地方官吏の職を奉ずることになった。
一方、これは己の詩業に半ば絶望したためでもある。曾ての同輩は既に遥か高位に進み、彼が昔、鈍物として歯牙にもかけなかったその連中の下命を拝さねばならぬことが、李徴の自尊心を如何に傷つけたかは、想像に難くない。
一年の後、公用で旅に出、汝水のほとりに宿った時、遂に発狂した。或夜半、急に顔色を変えて寝床から起き上がると、何か訳のわからぬことを叫びつつそのまま下にとびおりて、闇の中へ駆け出した。
彼は二度と戻って来なかった。付近の山野を捜索しても、何の手掛かりもない。その後李徴がどうなったかを知る者は、誰もなかった。
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