名前はまだない『吾輩は猫である』夏目漱石


主人が書き物机に向かって一心不乱に何やら書いている。手紙か。あるいは日記か。否、よく見ればそれは小説のようだ。書き出しにはこうある。吾輩は猫である。名前はまだない。

 

物語は、一匹の猫の独白から始まる。生まれた場所を抜け出した彼は、書生から逃げ出した末に、生垣の隙間から、とある一軒の家屋へと辿り着く。

 

そこは、中学校の英語教師をしている珍野苦沙弥の家であった。彼は、家の主人である苦沙弥氏の許しを得たことをきっかけに、その家に入り浸るようになる。

 

まるで吾輩のようではないか。吾輩もまた、この家に迷い込んで飯にありつくようになったのだ。飯ついでに、主人にも頭を撫でさせてやっている。

 

吾輩の主人の名は、夏目金之助という。数年前に英吉利から帰ったばかりで、その頃は神経衰弱の有様がひどいものであったが、近頃は少しばかり落ち着いたようである。

 

物書きでもない主人が何故今になって小説なんぞ書き始めたか、と首を傾げたが、思えば、今は人間の間で小説を書くのが流行になっているようである。

 

そういえば、少し前に主人の友人であり小説を書いている高浜虚子が、主人に「どれ何ぞ気晴らしに小説でも書いてみたらどうか」と言っていたのを思い出した。成程、それで主人は小説を書き出したのだろう。

 

その下地にいるのが吾輩である、と思えば、少しばかりこそばゆいような思いがある。どれどのような代物になるか、吾輩が見てやろうではないか。

 

微かに胸躍らせつつ読んでみたのだが、やがてがっかりした。どうやらこれは吾輩を書いたものではない、ということに気付いたからである。

 

猫は知識人、否、知識猫であった。古今東西あらゆる文芸に通じ、人間観察も巧みだ。作中の主人である苦沙弥氏やその友人などは散々にこき下ろされている。彼らを見ながら、色々と思索に耽り、「人間とは何か」を考え続けている。

 

しかし、それは猫ではない。生きるのに必死な我々に、そんなことを考える暇など片時もないのである。すなわちそれは、その猫が吾輩ではなく、主人の夏目金之助その人であることを示している。

 

つまり、主人は吾輩の名を騙り、自らの哲学や思想を語っているようなのだ。まこと許しがたき蛮行である。吾輩にも出演料として鰹節をたらふく食わさねばなるまいに、ただ名を借りるだけとは、礼を失しているだろう。

 

と思ったのだが、気付けば吾輩は野良。名無しである。これには参った。よもや野良の誇りを失わんとした吾輩の生き様が、こんなところで痛手を負うとは。

 

その後、あまり人間界には詳しくないのだが、どうやらその作品は好評を博したらしい。主人には多くの知人が増え、彼らは夏目邸を訪れるたびに吾輩の頭を撫でた。

 

ふむ、まあよいだろう。許してしんぜよう。何せ吾輩はすでに一介の野良猫ではない。小説の中に登場している、日本一有名な猫となったのだからな。

 

 

猫の目から眺める滑稽な人間模様

 

吾輩は猫である。名前はまだ無い。

 

吾輩はここで初めて書生という人間の中でも獰悪な種族と出会った。彼らは我々を捕まえて煮て食うという話である。

 

しかし、当時の私はそれを知らないので、彼の掌に乗せられて、しばらくはよい心地で座っていた。

 

しかし、すぐに凄まじい速度で動き始めた。どさりと音がして目から火が出た。何のことやらいくら考えてもわからない。

 

気がつけば、書生はおらず、たくさんいたはずの兄弟も母親もいない。目を開けていられないほど明るかった。吾輩は藁の上から笹原の中へ棄てられたのである。

 

吾輩は何でもよいから食い物のあるところまで行こうと決心し、竹垣の崩れた穴からとある邸内にもぐりこんだ。

 

家の内に入った吾輩は、そこで書生以外の人間を再び見る機会に遭遇した。っまず会ったのは炊事を任された下女である。

 

下女は吾輩の首筋を掴むと、外へと放り出した。しかし、ひもじいのと寒いのとに我慢できず、吾輩は再び家に入る。そして、また放り出される。

 

同じことを四、五回繰り返していると、この家の主人が出てきた。下女がいくら追い出しても入ってくると文句を言うと、彼はそれなら置いてやれと返して奥へと戻っていった。

 

かくして、吾輩はこの家を自分の住処と決めたのである。

 

 

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