仕事への向き合い方を考える『転職の魔王様』額賀澪


「転職」は、いわゆる敗北というか、白旗に近いものだと思っていた。社会人として不適格であったことを示す烙印。前職で落ちこぼれた証。その考えが変わったのは、額賀澪先生の『転職の魔王様』を読んでからのことだった。

 

未谷千晴は、言うなれば「社畜」と呼ばれる存在だった。上司にこき使われ、都合よく扱われていた。倒れたことを契機に会社を退職したのが、物語の始まる前の出来事である。

 

彼女は叔母の落合洋子の紹介で、洋子が社長を務める「シェパード・キャリア」という転職エージェントに依頼して、新たな一歩を踏み出すことに決めた。

 

そこで彼女に担当としてつけられたのは、「転職の魔王様」とあだ名される来栖嵐という男。顧客に対するものとは思えない彼の舌鋒に、未谷は翻弄されることになる。

 

作中には、さまざまな理由で転職を考える人たちが登場してくる。彼らを見ていると、思わず過去の自分が思い出されてくるかのようだった。

 

私もまた、かつては言うところの「気持ち悪い社畜」であった。「ここらでは車がないと生活できない」と勤めていた店の店長に言われて、自分には必要ないと自覚しながらも車を買ったほどの。

 

とにかく、自分は新参者なのだから、上司や先輩の言葉には従わなければならないと考えていた。しかし、結果として、私は長年勤めてきたアルバイトの奴隷のような存在になっていた。

 

だから、千晴の壮絶な社畜エピソードも、実は共感できるところもある。むしろ、私は一年で音を上げたのだから、三年勤めあげた彼女の方が社会人として立派であろう。

 

「とりあえず三年」という言葉は、就職の時も親から口を酸っぱくして言われていた言葉だ。三年は勤めないと、転職することも難しくなる、と。

 

しかし、口で言うのは簡単なものの、三年勤めるというのはとても難しい。人が壊れるまでに、それほどの時間はかからない。

 

「とりあえず三年」を真に受けた人たちは、どれだけ苦しかろうが辞めることができなくなる。まるで呪いだ。毎日のように身体も心もすり潰されていくのに、周りの人たちは常識論ばかりを振りかざして何も聞いてくれない。そうしてやがて取り返しがつかないほど壊れていく。

 

日本社会は、会社を中心に回っている。昔から、社会のために身を粉にして働くのが当然とされ、それが美徳だと言われてきた。

 

働き方が見直されている現代であっても、何も変わらない。社会の流れ自体は変わっているのに、会社を仕切っているのが考え方を改める気のない老人たちばかりだからだ。人が変わらなければ、いくら叫んでも、現実は変わらない。

 

社会には、いわゆる「ブラック企業」ばかりだ。そして、口ではいろいろ言いつつも、そのやり方を改める気なんて彼らにはないのだ。それが会社のやり方だから。身を粉にして働くことこそが、勤勉な日本人の鑑だから。

 

『転職の魔王様』は、そんな社会に絶望していた私に、希望を与えてくれた。今まで黒く染まっていた視界が、大きく開けたかのようだった。

 

「他人」や「会社」を基準にして生きるのは、もうやめよう。自分の意思で選択して、ありのままの自分を貫く。それこそが、自分の人生を生きるということではないか。

 

 

迷える子羊を導く

 

三月になったというのに、傘の隙間から入り込む雨は紙やすりみたいに冷たく鋭かった。ウェリントン型の眼鏡のレンズに、雨粒がひとつ、こびりつくみたいに落ちる。未谷千晴は傘の柄を持ち直した。

 

今月から大学生の採用活動が解禁されたせいか、新宿駅からの道のりは、リクルートスーツ姿の就活生が目だった。四年前の千晴もそうだった。今、頑張れば、きっと幸福な社会人生活が待っている。そう思っていた。

 

まさか、社会人になって、たった三年で転職活動をすることになるなんて。目的のビルの前で足を止め、千晴はゆっくりと深呼吸をした。電車に乗るのも久しぶりだった。

 

家族でも友人でもない人とまともに話すのは、三週間ぶりだ。でも、季節の移り変わりに乗り遅れてしまったら、二度と復帰できない気がする。社会に、会社に、普通に働いて普通にお金を稼ぐ普通の大人に、戻れなくなる。

 

〈シェパード・キャリア〉

 

エントランスに掲げられた木製の看板に、白い照明が当たっていた。ガラス製のドアを開けると、無人の受付があった。電話が置かれていて、来客用の呼び出し番号が案内板に貼ってある。

 

受話器に手をやった途端、黄色い声が飛んできた。落合洋子が、本棚の奥から現れる。彼女は千晴の叔母にあたり、シェパード・キャリアは洋子が社長を務める人材紹介会社、いわゆる転職エージェントだ。

 

去年の年末から休職し、先月ついに会社を辞めた千晴に「次の職場はうちを使って探したら?」と言ってくれたのは、洋子だった。

 

「かわいい姪っ子には優秀なキャリアアドバイザーを担当につけておいたから」

 

安西された窓際の席に腰かけると、洋子は「それじゃあ頑張ってね」とストールを翻した。慌てて振り返って、千晴は洋子を見上げた。

 

「ねえ、洋子叔母さん。ありがとね。新しい仕事、頑張って見つけます」

 

「大丈夫、大丈夫、うちのキャリアアドバイザーがばっちり見つけてくれるから。大船に乗ったつもりでいなさい。なにせ、相手は転職の魔王様だから」

 

 

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