これはゲームだ。彼と私の、知恵比べ。彼が私を見つけられれば勝ち。私が隠れ切ることができれば、私の勝ち。
彼が姿を現すと、周りにいる女性ファンが黄色い悲鳴を上げた。彼は見目がいい。サイン会にはいつも、大勢の女性ファンが参加している。
私は彼女たちの間にとけ込んで、そんな様子を冷淡に見つめた。内心では、彼にもファンにも侮蔑を抱いて。
私が彼に嫌がらせをするようになったのは、彼が有名になり始めた頃だった。私は彼のファンとしてやりとりを繰り返し、親密な間柄になった。
その裏で、いくつものハンドルネームを使い分けてネット内であることないことを吹聴していく。
ネットは素直だ。人の悪口にはすぐに飛びつく。それが話題の人ともなればなおさら。彼がネット上で炎上するたび、私は上がる口角を抑えきれなかった。
私はきっと、彼のことが好きなのだ。私ほどのファンはいない。だって、私は誰よりも早く彼をずっと見ていたのだから。
けれど、だからこそ、私は彼が嫌いだった。彼の煌びやかな経歴も、彼の見目に熱を上げているファンも、何もかも。
だから、ゲームを仕掛けたのだ。彼が、私が何者なのか、気付くことができるかどうか。ヒントも出したし、機会も与えた。
サイン会には毎回顔を出す。当然だ。そうしなければゲームは始まらない。ゲームは常にフェアでなければならない。
彼は、気付くだろうか。にこやかに女性ファンにサインをしている笑顔の下で、その実、この上ないほど憔悴していることを、私は知っている。
彼に気付かれれば、今までの私が積み上げてきたものはすべて崩壊する。そんなことは、わかっていた。私がしていることは、犯罪なのだ。
だが同時に、気付いてほしい、とも、思っていた。彼の手で、私を葬ってほしかった。彼の目が驚愕と憎悪を持って私を捉えた時、いったいどれほどの興奮を覚えるだろうか。
思い出すのは、一冊の小説だ。書店を舞台にした成風堂シリーズの二冊目、『サイン会はいかが?』という作品。私はその作品が大好きだった。
作中では、シリーズの探偵役である多絵と杏子が、人気作家に嫌がらせをしている犯人を突き止めようとしていた。
ならば、今は? 彼は誰かに依頼をしたのだろうか。それとも、自分自身で正体を突き止めようと躍起になっているか。
彼が私の存在に翻弄されている。私が、彼の頭の一部に住みついている。そう考えるだけで、私の楽しさは突き抜けていくかのようだった。
列が進んでいく。あと少し。あと少しで、私は彼のもとに辿り着く。さあ、気付くか、どうか。勝負の時は、もうすぐだ。
私の前に並んでいた女性が、嬉しそうにサインしてもらった色紙を胸に抱いて脇へと逸れていった。私は一歩、前に出る。
彼は色紙にサインをしようとして、ふと、彼の手に握られたペンが動きを止めた。
彼の視線が、ゆっくりと私の顔を向く。その瞳が驚愕に見開かれるのを、私は見た。
まさか、お前が。彼の口がそう言った。私は思わず笑みを浮かべた。彼の横に控えるアシスタントが、何事かというような怪訝そうな表情をしている。
ああ、ようやく。ようやくだ。この瞬間を、私はずっと待ちわびていた。黒服の男が私の腕を掴むのを、私はどこか他人事のように感じていた。
人気作家からのお願い
映像化が決まった話題作などは、全国の本屋から注文が殺到するので常に品薄状態だ。メモを書いていると、名前を呼ばれた。内藤という男性社員が手招きしていた。
「店長のお呼びだよ」
「私に?」
ふたりして事務所に入ると、満面に笑みをたたえた店長と、やけにかしこまった藤永がそれぞれ椅子に腰かけていた。
「杏ちゃん、ビッグニュースだよ」
たちまち嫌な予感に襲われた。店長のいうニュースが良かった例はほとんどない。
「今若い人に人気の、ミステリ作家の影平紀真先生のサイン会をね、うちでやろうと思うんだ」
店長は俗にいう「ふんぞり返る」というポーズをとった。とっさに二の句が継げなかった。数秒後、「まさかあ」と笑った。
サイン会なんて、都心で一、二回やるのが精々。千坪クラスの書店の中から、一店舗か二店舗。二百坪に満たない成風堂に、出る幕はない。
しかし、どうやら事情を聞くと、そのサイン会には変わった条件がつけられているらしい。
影平先生には熱心なファンがいる。ところが、どこの誰なのかわからないのだという。そこで先生から出された条件は、謎の人物がどこの誰なのか、解き明かしてくれる店員さんのいる書店で開きたい、と。
「なんですか、それ。うちと関係ないじゃないですか」
「おいおい。なぞなぞだかクイズだか知らないが、うちには解ける店員がちゃんといるんだ。名乗り出ない手はないだろう」
「まさか店長……その店員って、多絵ちゃんのことですか?」
「さすがに他にはいないだろ」
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