私は本屋に並んだ本棚を眺めて、眉をひそめた。整然と立てられた本を指でなぞる。
私は以前から小説の分野の偏りに理不尽な憤りを覚えていた。本屋に行くのは好きだが、物色していると微かな苛立ちが胸中に去来するのである。
本棚に並ぶのは多くがミステリ小説である。現代小説ともなると、推理小説ではない作品であってもミステリの味を含有している。
推理小説は嫌いではない。しかし、こうも前に出されると食傷気味になるというのが人情である。
カテゴリはあくまでもカテゴリである。無論、同じガラス瓶の中に同じ液体が入っているとは限らない。
しかし、推理小説という看板がそれらを全て同じに見せる。さながら仮面舞踏会のように、顔が内面の区別を霧中に隠す。
結果として、本棚の多くの小説に食指が動かなくなるのである。もはや、我が心は尋常の推理小説では満足できぬようになってしまった。
書店の店員を前に、私は問うた。
「時に、他にはないような、一風変わった小説というのは、ないものかね?」
私の問いに、書店員はにやりと怪しげな笑みを浮かべた。
「ええ、ええ、ございますよ。こちらを」
彼の差し出したのは黒い表紙の本である。『黒死館殺人事件』と書かれていた。見るからにミステリ小説気味なタイトルに内心肩を落とす。
「貴君、すまないが、私はもうミステリは食傷気味なのだ」
「いえいえ、お客様は一風変わった小説をご所望とのこと。であるならば、これ以上のものはありますまい」
彼は怪しげに笑うだけである。私は半信半疑に本をめくった。
幻惑的な魅力に囚われて
私は読後の余韻にしばし浸ることにした。胸中に去来する黒死館の幻想は未だ消えようとはしない。
その内装はあまりにも奇々怪々である。ミステリの傍流を汲んでいるにもかかわらず、漂う妖気は尋常の比ではない。奇書と呼ばれるにも頷けよう。
饒舌に語るペダントリーの数々は脳裏に収めることすらも難しい。神秘思想、異端神学、紋章学、心理学、暗号学など。おびただしいそれらはもはや捉えようがないだろう。
一見、ばらばらのそれらをパズルのように組み合わせていくのが法水麟太郎のあまりにも飛躍した超推理である。常識や理屈を無視したようなそれらは不思議と真実を掴み取る。
それはさながら未来予知を見ているかのようであった。しかし、その超推理すらも犯人にとっては想定の範囲内であり、麟太郎たちを凶悪に嘲笑うのだ。
しかし、何より私の心を惹きつけたのはその作品全体から漂う言いようのしれない凄味である。
ペダントリーの正否であるとか、麟太郎の言動の怪しさであるとか、そういったものをすべて超越した文章の気迫。
それがやはり尋常の小説とは違う、恐ろしい妖気の正体であった。
その禍々しい妖気があまりにも近寄りがたく、その小説に対してある種の忌避感を覚えてしまう者もいるだろう。
しかし、むしろ私はその妖気がどうしようもなく魅力的に思えてならないのだ。毒々しい香りの前には私なぞ蜜に誘われる虫に等しいのである。
私は再び例の本屋を訪れた。店員に礼を伝えようと思ったのだ。
しかし、彼の姿はない。他の店員に聞いても知らぬという。彼の痕跡はまさしく謎の霧中のうちに呑まれてしまったのである。
真実をペダントリーが覆い隠す異色ミステリ
降矢木の館は何時か必ず不思議な恐怖が起こるであろうと噂されていた。それはケルト・ルネサンス式の城館から感じられる奇異な妖気から起因するものである。
しかし、それはただの幼稚な空想の断片ではとどまらなかった。建設以来三度に渡る動機不明の事件、門外不出の弦楽四十奏団などの怪しげな噂が館の周りを包みこんでいたのである。
その妙に不安定な空気は神秘的性格であった降矢木算哲博士の奇怪な幕引きがより一層の拍車をかけた。
その事件には驚くべき深さと神秘があり、刑事弁護士の法水麟太郎は狡知極まる犯人のみならず、生の世界から去っている故人とも対峙せねばならなかったのである。
事件は第一ヴァイオリン奏者のグレーテ・ダンネベルグ夫人から始まった。
彼女を至らしめたのは強度の青酸中毒によるものであった。その凶器は果物皿に乗ったオレンジに仕込まれた何十倍にも及ぶ青酸カリである。
しかし、ダンネベルグ夫人の事件には麟太郎を迷宮へと迷い込ませる奇怪な特徴がいくつも現れていたのだ。
まず、ひとつには彼女の両こめかみに刻み込まれた紋様上の切り傷である。夫人の命あるうちに刻まれたであろうそれは降矢木家の紋章であった。
次に、彼女の肌は澄んだ青白い冷光をさながら聖女のように放ち続けているのである。その有様は神々しくあるからこそ一層不気味に見えるであった。
事件の鍵を握るのはテレーズの操り人形である。彼女は夫人の命を奪い、彼女の部屋へと続く扉の鍵を固く閉ざしたのであった。
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