天才絵師の娘の人生『星落ちて、なお』澤田瞳子


親子ってなぁ、どうにも鼻持ちならねぇ関係よな。切ろうとしても切れやしねぇ。憎んでいるそいつの名前が俺の背中にずっとついてきて回るのさ。まるで呪いだ。取り憑かれているみてぇだ。

 

俺の画号は親爺殿がつけた。「おうい、おうい」って俺を呼ぶからな。だから応為ってわけだ。世間じゃあ、「葛飾応為」っていやぁ、それなりに名が知られてる。「あの北斎の娘」ってな。

 

ハン、ほんと虫唾が走らぁ。俺がどれだけ絵を描いてもヨォ、俺はいつまで経っても「北斎の娘」。弟子も褒める時ァ「さすがは先生の娘さんだ!」ときたもんだ。

 

俺が親爺殿から絵ェ習ったなぁ俺がまだ餓鬼の頃だった。何もわからねぇ俺に親爺殿は無理矢理筆持たせて絵ェ描かせたのさ。

 

俺は絵師として食っていけるようにはなった。だが、だからこそ、自分の限界ってのはどうしても見えてくるもんさ。俺は一生涯かかっても、親爺殿にはかなわねぇ、ってな。

 

親爺殿は家族であり、師であり、でかい壁だった。絵師ってなぁまこと業の深ぇ生業だぜ。俺と親爺殿の身体にゃあ墨が流れていて、俺らの間には絵しかねぇのさ。

 

どれだけ筆を折りかけたことか。一生かかっても、俺は親父殿にはかなわねぇ。俺は一生、「北斎の娘」のままだ。そう知った時の絶望ときたら。

 

それなのに、親爺殿ときたらよォ、「儂は絵が下手じゃ」などと叫んでは涙を流して悲しみやがる。俺が描いた美人画を褒めちぎり、てめぇはそれよりも上手い美人画を描いておきながら。

 

俺は親父殿が嫌いだった。とっととくたばっちまえとすら思っていたのさ。親爺殿がいなくなりゃあ、そこでようやく俺は絵師って生業から解放されるんだ。

 

そう信じて疑わなかった。なのに、親爺殿亡き今、なぜか俺は今も絵を描いている。

 

親爺殿はずっと、絵のことにしか興味がなかった。「画狂老人」の名は伊達じゃねぇ。他の誰よりも俺が知ってる。何せ俺ァ生まれた頃から親爺殿を見ているんだからな。

 

だからこそ言える。あの爺は誰でもよかったんだろうよ。自分の絵の手伝いをしてくれるやつなら、誰でも。だから、たまたま近くにいた俺を、絵師に仕立て上げた。あいつは自分の娘のことも、何も考えてなかったんだ。

 

そんなろくでもねぇ親爺殿がようやくいなくなって、俺の中身はすっかり空っぽになっちまった。俺は絵を描くしかないのだと、思い知らされちまった。

 

筆が、止まらねぇんだ。俺の筆が。俺は描きたくねぇって叫んでるのによぉ、手が勝手に動きやがる。筆握って、絵の具に汚れながら、色を載せているのさ。

 

ああ、いいよ。ようやくわかった。結局、俺ァどこまでいっても「北斎の娘」ってこったな。親爺殿に届かないことを知っていながらも、苦痛と劣等感に苛まれながらも、ただ描け、と。それこそが、「画狂」の娘だ、と。

 

届かない壁に苦しみ続け、自分の限界にもがき、それでも描く。絵師ってなぁ、そういうもんだ。だが、俺はどれだけ苦しくてもその道を貫くと決めた。

 

なあ、とよ。あんたはどうなんだい。俺と似た境遇の娘。天才絵師の娘として、その絵を引き継いだ娘の行く先を思いながら、俺は筆を走らせ続けた。

 

 

絵師の業

 

じじ、と音を立てて揺れた行燈の灯りに、とよはぼんやりと顔を上げた。油が切れるはずはない。なみなみと溢れんばかりに行燈に油を注いだのは、まだ昨日の朝ではないか。

 

改めて考えれば、昨夜は父である暁斎の通夜がこの画室で営まれたため、家じゅうの行燈は夜通し点りっぱなしだった。それにもかかわらず今朝、油を足さなかった迂闊に、とよは自分の動顚ぶりを改めて思い知らされた気がした。

 

「おとよさん、油の買い置きはありますか」

 

部屋の隅にちんまりとかしこまっていた鹿島清兵衛が、腰を浮かす。とよからすれば、如何に父の弟子とはいえ清兵衛の世話になるのは気が引ける。だが清兵衛は葬儀の支度から僧侶の手配まで一切を、ほぼひとりで取り仕切った。

 

河鍋暁斎――の画号で知られた父は交誼が広く、弟子の数だけでも軽く二百人を超す。そのうえ、歌川家や狩野家の相弟子やら狂言の仲間、親しい戯作者や飲み友達を合わせれば、とよにもよくわからぬ付き合いは数知れない。

 

五歳の春から父のもとで稽古を始めたとよにとって、画室の行燈の油注ぎはなによりも大切な仕事であった。それだけに、思いがけぬ己の失念がしんと指先を冷やした。

 

「姐さん、星が流れたよ」

 

とっぷりと暮れた夜空を振り返りながら飛び込んできたのは、真野八十五郎であった。その後に続いて土間に踏み入った八十吉が、倅の頭を小突く。

 

「遅くなってすまねえ。寺の始末は、すべてつけてきたぜ。おとよ坊も大変だったなあ」と、大きな息とともに、上がり框に腰を下ろした。

 

「いえ、おじさんこそ。お世話になりっぱなしでごめんなさい。ところで、八十吉さん。周三郎さんはご一緒じゃなかったのですか。どうにも一向に戻ってこられませんが」

 

八十吉はえっと声を上げ、かたわらの八十五郎と顔を見合わせた。

 

「おそらく、大根畑の家でしょう。呼んできます」とよは早口に言うなり、下駄をつっかけた。

 

 

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