懐かしい思い出と新たな時代『蒲公英草紙 常野物語』恩田陸


 彼女との思い出はそう多くはない。出会ってから彼女が亡くなるまでの、ほんの数か月。けれど、私は生涯を通して、彼女のことを決して忘れないだろう。

 

 

 彼女のことを思い出そうとすると、ずいぶん昔に読んだことがある恩田陸先生の『蒲公英草紙』を思い出す。

 

 

 常野物語というシリーズのひとつで、常野一族という不思議な力を持った人たちを描いた作品だった。

 

 

 幼い頃の私は常野物語シリーズが大好きだった。『蒲公英草紙』は前作である『光の帝国』とは大きく異なる雰囲気の作品となっていたけれど。

 

 

 『蒲公英草紙』は峰子という女性が思い出を綴った日記のようなものであるらしい。

 

 

 彼女は子どもの頃、家の隣りに建っていた大きなお屋敷に出入りしていた。その理由は、その家に住んでいた聡子という少女の遊び相手として呼ばれたからだった。

 

 

 聡子は学校にも通えないくらい病弱だったけれど、峰子が言うには後光が差しているかのような少女だったという。彼女と峰子は仲良くなり、同じ時間をよく過ごすようになった。

 

 

 聡子には不思議な力があったという。彼女が『雨が降る』と言えば雨が降り、お客様が来ると言えば本当に来た。

 

 

 ある時、お屋敷の離れに、四人の一家が引っ越してくる。夫婦と、二人の子ども。

 

 

 彼らは穏やかだけれど、不思議な雰囲気を持つ人たちだった。峰子は彼らがいる生活に馴染んでいきながらも、彼らに違和感を覚えていたのだった。

 

 

 彼女と出会った時、私は本の中から聡子が出てきたのかと思ったくらいだった。それほどまでに、作中に出てくる聡子のイメージは彼女にそっくりだった。

 

 

 彼女は病弱なわけではなかった。けれど、どこか浮世離れしたような、大人びた、子どもらしくない雰囲気を持っていた。

 

 

 驚くことに、彼女は聡子と同じように、未来を見ることができたのだと思う。彼女は遠い目をして言った時、それはいつもぴたりと当たっていた。

 

 

 クラスの人たちは最初こそ好奇心や賞賛の視線を向けていたけれど、やがて気味悪がるようになり、彼女から距離を置くようになった。

 

 

「ねぇねぇ、私、どんな仕事に就いてるの?」

 

 

「さあ、わからない。真っ暗だから」

 

 

 いつか、彼女に聞いてみたことがある。どんなことが見えるのか、と。彼女が言うには、断片的な光景がパズルのように目の前に飛び込んでくるのだという。

 

 

 けれど、それは間近に起こる未来ばかりで、遠い未来のことはわからないようだった。当時の私は限界があるのかと思っていたけれど、今ならわかる。

 

 

 彼女は命を落とすからだ。未来が真っ暗なのは、その時にはもう、彼女自身がいなくなっていたから。

 

 

 彼女はきっと、そのことを知っていた。けれど、いつも穏やかに微笑んで、誰にもそのことを言わなかった。

 

 

 いや、一度だけ。彼女はこんなことを言ったことがあった。

 

 

「私には、みんなが羨ましいよ」

 

 

 それは私が「羨ましい」と漏らした時だった。当時の幼い私は「またまたぁ」と笑ったけれど、彼女は本気だったのではないだろうか。あの瞬間の彼女の寂しそうな横顔は忘れない。

 

 

 私たちはみんな先のことがわからない。どうにかして先を予測しようと躍起になって、科学技術を進化させてきた。より確実な未来を知るために。

 

 

 けれど、果たして未来を知ることがそんなに大切なのか、と、私は彼女がいなくなって以来、思うようになった。

 

 

 未来は本来、固定されるものじゃない。未来を知るということは、流動していく未来を、その形に固めてしまうことなのではないだろうか。

 

 

 彼女はいつだって寂しそうに笑っていた。自分の未来を知っていたからだろう。彼女は自分の未来に囚われて、現代を全力で生きることができなかった。

 

 

 私たちは予知に憧れる。けれど、未来がわからないというのは、むしろ、私たちがそれだけ自由なのだということになるんじゃないだろうか。

 

 

 忘れてはいけない。未来は決まっているものなんかじゃない。私たちの手で、作っていくのが未来だ。

 

 

幸せだった頃の思い出

 

 いつの世も、新しいものは船の漕ぎだす海原に似ているように思います。何か大きなものが海の向こうにあるという予感の気配を、足元に感じているのですね。

 

 

 あの頃の私は、そんな予感を感じていたのでしょうか。何か大きなうねりが将来自分を飲み込むことを知っていたのでしょうか。

 

 

 たしかに知っている人もいました。あの奇跡のような目をした娘や、その家族たちは。それはかつての私にはまったく無縁の世界に思えました。

 

 

 このところ、私の記憶はいつもあの日々に還ってまいります。新しい世紀を自分とは違う世界のことと感じていた日々、最も温かく幸せだった日々の記憶です。

 

 

 私は日記をつけておりました。先生に勧められ、お父様からも綴り方の稽古になると言われてつけ始めたものでございます。

 

 

 私はいつも暗い窓辺からお隣のお屋敷を眺めておりました。小学校に上がる春、お父様から帳面をいただいた私は、世の中の役に立つ人間になりたいと考えたのを覚えています。

 

 

 その日も窓の外の丘には麗らかな光が降り注いで、愛らしいたんぽぽがすくすくと群れ咲いていました。その時、私はこの日記に名前を付けることにしたのです。

 

 

 たんぽぽそうし。ふっとその名前を思いついた瞬間を、この歳になっても思い出すことがあります。あの麗らかな春の午後、暗い家の中から窓の外を眺めていた幼い頃の私を。

 

 

 『蒲公英草紙』は随分長い間私を支えてくれました。何かの折、ひとりになりたい時が訪れると、それを開くことになるのでした。

 

 

 自分が幸せであった時期は、その時にはわかりません。こうして振り返ってみて初めて、ああ、あの時がそうだったのだと気づくものです。

 

 

 私はつい最近も、長い夜の後の夜明けの夢に聡子お嬢様の声を聞きました。綿飴のように軽く柔らかくお優しい声です。

 

 

 峰子さん、きっと聡子といっしょにリボンをつけて女学校に行きましょうね。

 

 

 記憶の中の物事を整理するのは思ったよりもむつかしゅうございます。頭の中では順序だてて思い出したいと考えているのに、すぐにあちこちに思いが飛んでしまいます。

 

 

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