人間の滅んだ世界で罪を犯した「人でなし」だけが生き残った『パライゾ』阿川せんり


 あの瞬間のことを、今でも夢に見る。目が覚めた時はいつも汗で濡れていて、サイレンの音を、遠くに聞くのだ。

 

 

 私は震えている自分の手を見つめる。痩せ衰えて骨ばった老人の手だ。もうあの頃のような力は出ない。けれど、思い出せばいつでも、私の手は肉付いた若々しい手のひらへと蘇っていく。

 

 

「俺たちは友だちだったはずだろう、それなのに、なぜだ?」

 

 

 声が問うてくる。ざらついたようなノイズのような声。恨みがましい声だ。かつては毎日のように聞いていて、そして、もう二度と聞くことがない声のはずだった。

 

 

 わかっている。ただの幻だ。私の罪が見せている幻の声に過ぎない。それなのに、落とした視線の先に映る彼の指先は、ありありとした質感を持ってそこにいる。

 

 

 耐えていれば、いずれはいなくなる。いつもそうだ。顔を上げてはならない。そこにあったのは、何もない、虚ろな瞳しかないのだ。

 

 

「罪を償え。お前の罪を」

 

 

 彼の手が私の胸ぐらをつかむ。年老いた私と比べて、彼の力強さは若いままだった。私が、彼をその時間に留めてしまったのだ。

 

 

 罪。あの日から、私は自分の罪を忘れたことはない。これで解放されると願っていた当時の私を嘲笑うかのように、罪は二度と消えない刻印となって私の心に刻み込まれたのだ。

 

 

 悪夢の後に聞くサイレンが怖くて仕方がなかった。今にも部屋のチャイムが鳴り、手錠を持った破滅が訪れるのではないかと思えば震えが止まらなかった。

 

 

 私はずっとそうして過ごしてきた。何度手を洗っても、鉄の匂いが身体にこびりついているかのように感じていた。

 

 

 私の胸ぐらをつかむ彼の手が、耳の奥に響く彼の声が、視線の先に映る彼の身体が、小さくなって、黒い塊となっていく。

 

 

 やがて、何とも知らぬ黒い塊となったそれは、ただ身体を蠢かせるだけとなった。それはだんだんと小さくなっていって、やがて畳の隙間へと消えていく。

 

 

 あの瞬間の、あの感触は、あれから何十年も経った今でも、私の手に生々しく残っている。

 

 

 肉を刃が裂いていく感触。手にかかってくる真っ赤な彼の命。それは生温かく、粘り気を持っていた。彼の逞しい身体がただの肉塊となって、瞳からは木の洞のように光が失われていく。

 

 

 私はそれを、間近で見ていた。熱に浮かされたような興奮の中で、どこか冷え切ったような自分がいた。

 

 

 彼が黒い塊へと変貌していくのを見て、私は自分がそれまでの自分とはまったく違ったものになり果ててしまったことに気が付いた。

 

 

 『パライゾ』という作品がある。阿川せんりという作家の本だ。『パライゾ』は『楽園』という意味を持つ言葉だ。

 

 

 ある日、突然、前触れもなくソレは起こった。人々が、圧縮されて、ただ跳ねることしかできないような鳥のごとき黒い塊と変貌する。

 

 

 しかし、何人かの人間は変貌を免れていた。彼らには、あるひとつの共通点があったのだ。

 

 

 それは、殺人を犯していること。世界は、罪人と動物だけとなった。

 

 

 やりたい放題だと歓喜する者。特別な存在だと自負した者。罪の意識に恐怖する者。残されたことに罰としての意味を見出す者。

 

 

 悪人ばかりの世界で、彼らは何を思うのか。そんな作品だ。

 

 

 そのページを開いた瞬間、私はその世界にいた。年老いた自分ではない、若い頃の、罪を犯したばかりの未熟な私の姿で。

 

 

 最期はいつも違っていた。事故に巻き込まれることもあったし、他の生存者の手にかけられたこともあった。自らの意思で終わりを迎えたこともあったし、獣に襲われたこともあった。

 

 

 現実の私は四畳半の部屋でただ座っているに過ぎない。しかし、私は妄想の中に広がったその世界で、何度も何度も結末を迎えた。

 

 

 私をずっと苦しめてきた罪。いつかは罰が下されるだろうと思っていた。しかし、私の罪は誰にも見つからないまま、時だけが過ぎていった。

 

 

 裁きが下されないことで私を襲ったのは、安堵ではなく、恐怖だった。いつ裁きが下されるか。その恐怖が、私を蝕んでいった。

 

 

 妄想の中の私は思う。たしかに、ここは『パライゾ』、「楽園」だ。私は歓喜のままに終わらない苦痛と恐怖に耽溺し、何度も罰を受け続けた。

 

 

 罰を受け続けること。それだけが、私の望みだった。窓の外から、何かが跳ねる音が聞こえる。

 

 

罪人だけが残された楽園

 

 山手線の高架が道路に濃い影を落としていた。十一月の末にしては高い気温の中、影の隣りに沿うようにして、女は歩く。その五歩ほど後ろを、彼はついていっている。

 

 

 女は、彼が相槌を打たないことには構わず、のんびりとした声で話し続けている。

 

 

 秋葉原から御徒町へと続く高架の下が、様々な店となっていた。その道路の端にたまに無人の車が停められていたり、ぽつんと黒い塊が落ちているのみ。そのことに彼は心底安堵する。

 

 

「アキバに、なにしに来てたんスか?」

 

 

 女がくるりと振り返る。その拍子に、黒いタイツに包まれた脚が影の中に踏み込んだ。後ろ向きで歩きながら、首を傾げて彼を見つめる女。

 

 

 彼は唾を飲み込む。女はコートのポケットに両手を突っ込んでいる。しかし言葉は出てこない。

 

 

 そのさなか、女の踵のすぐ先で、黒い塊が衣類の上でびちびちと跳ねているのが目に入る。後ろ向きで歩く女は、そのまま、ぬめりのある黒い塊を踏んだ。女は「あら」と呟いて前に向き直る。

 

 

 彼は口元に手をやった。女のすっかり真っ黒になったショートブーツの靴底、そして無造作に放り出された衣服に擦り付けられ、小さく震える黒い塊から目を背ける。

 

 

 まだましだ、と彼は思った。秋葉原駅では、こんなものではなかった。あれに比べたら、まだ、この程度は。

 

 

 そんな彼を裏切るように、次第に道路上の黒い塊の数は増えていった。びたり、びたりと、跳ねる音がいくつも重なって、大合唱の様相を呈していく。

 

 

 女の右手に握られているものに、たじろいでしまっている。しかしスーツケースが邪魔をして、後ろに下がることはかなわない。

 

 

 どうしてこんなことになったんだ、と心の内で呟きながら、どうにかして唇の震えを抑え込もうとした。

 

 

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