図書館は果たして夢を見るか。私たちはそれがただの建物であり、私たち自身の手によってつくられた意思のない造形物に過ぎないことを知っている。しかし、彼の重ねてきた歴史は、私たちよりも遥かに多くのものを見てきたのだ。
一八九七年、帝国図書館は書籍館を前身として産声を上げた。日本で最初であり、戦前において唯一の国立図書館の誕生であった。
ところが、その道は決して平坦なものではなかった。書籍の保存という崇高な使命の下に生まれた彼の生涯に常につきまとうもの。それは「現実」であった。
「現実」、すなわち「お金」である。帝国図書館に対する予算は少なく、しかも別の事業に横流しされるような始末であったという。
しかし、彼は学問を修めんとする人たちの味方であり続けた。身分性別を問わず、その門戸は常に開かれている。その奥底には無数の文字の奔流が渦巻いていた。
中島京子先生の『夢見る帝国図書館』には、こんな一節が登場する。「帝国図書館は、ひとりの女性に恋をした」と。
その女性とは、樋口一葉である。生活苦に苦しんでいた彼女は、帝国図書館に通って自ら学んだ。知識を深め、生きるために必死で小説家としての道を歩もうとする彼女を、彼は有名になる前からずっと見守っていたのだ。
樋口一葉といえば、『夢見る帝国図書館』の作中で、喜和子という女性が持っているお気に入りの本が、樋口一葉の全集であったことを思い出す。
『夢見る帝国図書館』は、小説家である「わたし」と謎の女性、喜和子との交流を描いた一冊である。その物語はやがて喜和子の過去を追い求めるものへと変わっていく。
彼女はいつも「わたし」に、「帝国図書館の小説を書いてほしい」と言っていた。そのことを指し示すかのように、物語の合間には、帝国図書館の歴史が綴られている。恋云々の件もそこに描かれていた。
どうして彼女はそれほどまでに、帝国図書館に固執するのか。その謎は、彼女の過去の中にある。真実が次々と明らかになっていくのは、まるで謎解きをしているかのような心持にさせる。
何より、喜和子は魅力的な女性であった。「わたし」と出会った頃から白髪であったため、おそらくはそれなりに老齢なのだろうが、言動から年齢を感じさせない。
奔放で、自由を愛し、変人ではあるけれど、常識に囚われず、確固とした「自分」を持っている。そんな彼女だからこそ、「わたし」をはじめとした人たちが魅了されたのだろう。
帝国図書館はその長い歴史の中で多くの人を導き、見守り、そして見送っていった。もしも彼に心があったなら、喜和子に恋をしただろうか。
かつては帝国図書館と呼ばれたその建物は今、児童書専門の国立図書館として、今もなお、上野公園にその身をそびえている。
建物も、本も、私たちよりも遥かに長い年月を過ごしてきた。彼らには重ねてきた膨大な歴史がある。彼らから見れば、私たち人間などなんと矮小な存在であろう。
私たちは彼らを心なく、自分たちが作り上げた建築物に過ぎないと信じ切っている。しかし、彼らに心がないとなぜ言い切れるのだろうか。
昔から言うではないか。長い年月を使い古されたモノには魂が宿る、と。彼らの存在はこの土地に脈々と受け継がれてきたのである。
図書館は本を守る番人であり、本はもっとも優れた賢者たちだ。彼らの歴史に、私たちは遠く及ばない。現代に生きる我々は、その事実を、忘却してしまっていはいないだろうか。
帝国図書館の歴史
喜和子さんと知り合ったのは、かれこれ十五年ほど前のことだ。わたしが小説家になる以前のことで、出会った場所は上野公園のベンチだった。
小説を書いてはいるものの、雑誌に掲載されたり本が出たりしたわけではない頃というのは、立場的にも精神的にも不安定で、なかなか建設的な未来が思い描けない時期でもある。
ただ、言えるのは、不安定な時期だったからこそ、喜和子さんに出会うことができたのだろうということだ。わたしの不安定と喜和子さんの不安定が、都合よく惹かれ合ったのだろう。
五月の終わりごろで、うららかな、とてもいい日だった。ただし、心中はとりたてて穏やかというわけではなかった。将来への慢性的な不安が、漠然と胸を覆っていたからだ。わたしは噴水が見える位置にあるベンチに腰を下ろした。
喜和子さんは、動物園の方向からやってきた。短い白い髪をして、奇天烈な装いをしていた。「ああ、くたびれた」その人は、まったく躊躇なく、私の隣りに音を立てて座り込んだ。
その人の吸っている煙のせいで、わたしは大きく咳き込んだ。ようやく発作めいた咳が収まったあとで、わたしは隣のその白髪女性に「すみません」と言ってしまった。
「いいのよ」鷹揚にその女性は言った。その上、どこからか飴を取り出して、「舐める?」と、隣のわたしに聞いたのだった。
それが、喜和子さんとの初めての出会いであり、喜和子さんが根津神社の近くで買う大好きな金太郎飴を、分けてもらうのも初めてのことだった。
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