その気になれば、砂漠に雪を降らすことだってできる『砂漠』伊坂幸太郎


「その気になればね、砂漠に雪を降らすことだって、余裕でできるんですよ」その言葉を読んだ時、私の心のどこかが震えたような気がした。

 

その言葉は、伊坂幸太郎先生の小説、『砂漠』の中で、茫洋と読んでいるところに突然現れた。作中に登場する西嶋という男の言葉である。

 

『砂漠』は仲良くなることになる五人の大学生の四年間を綴ったものである。大学一の美女、東堂。奇妙な言動で周囲を振り回す西嶋。超能力が使える少女、南。鳥瞰型の男、北村。まとまりがない彼らをまとめることが多い鳥井。

 

語り手は俯瞰したように物事を眺めている北村が勤めているのだが、私はこの物語はその実、西嶋を中心に回っているのだと感じた。

 

西嶋は小太りの男である。宴席に遅れて入ってきたかと思えば、マイクの前に立ち、自己紹介の後に麻雀の平和だのラモーンズだのと、関係ないようなことを演説ぶって多くの同期生の失笑や侮蔑を買った。

 

空気が読めない。連続通り魔事件の犯人に共感する。平和ばかり作ろうとするせいで麻雀に弱い。大真面目に奇矯なことをする。後先を何も考えない。彼の言葉は理想ばかりで、現実が追い付いていない。

 

しかし、そんな彼が、いつも冷静な東堂や、俯瞰している北村すら変えてしまう。気が付けば、最初は「何だコイツ」と思った私も、本の中に登場する彼を目で追いかけていた。

 

彼はいつも何かを嘆き、憤っている。遠くの国の不幸を嘆き、争いばかりの世界を嘆き、自分に何かできないかと喘ぐ。

 

彼は憤るのだ。ニュースをぼんやり見ているだけの若者に。世界のことを何も考えようとしない世の中に。そして、苦しんでいる彼らに対して何もできない自分自身に。

 

それは、毎日をただ自分のためだけに生きている私の心を叱った言葉であるように感じた。事件を他人事のように眺めるだけで、何も感じないし、何もしない……。

 

西嶋が世界のために何かをしたわけじゃない。しかし、彼は少なくとも、誰かを助けるために動いている。強盗をする危険な男たちを止めるために果敢に挑み、処分される寸前のシェパードを引き取った。

 

彼は言うのだ。「目の前で、子供が泣いているとしますよね。銃で誰かに撃たれそうだとしますよね。その時に、正義とは何だろう、とか考えてどうするんですか? 助けちゃえばいいんですよ」

 

理想ばかり振り回して、軽蔑や失笑を買っている彼。しかし、この、いわゆる「イタイ」男こそが、誰よりも澄んだ目で世界を見ているのではないか。そう思うようになった。

 

私たちは彼のようになりふり構わず、体裁なんて何も考えず動くことができるだろうか。それができる人を嘲笑い、馬鹿にするような資格が果たして、私たちにあるのか。

 

いつからだろうか。かつての私たちはそんな正義感を持っていたはずなのに。いつから、こんなにもいらないものに雁字搦めにされて、ただの馬鹿になることができなくなってしまったのだろうか。

 

この世は砂漠だ。私たちは卒業と同時に、砂漠に放り出された。そこは荒涼としていて、ひどく渇いていて、道標も何もない。ただ、「自由にしていい」とだけ言われて、放り出されるだけ。

 

砂漠に雪を降らす。そんな馬鹿げたことを、と、誰もが笑うだろう。生きることに必死になるあまり、私たちの心までもが渇いていた。

 

だが、そう、砂漠に雪を降らすようなことも、余裕でできるのだ。私たちはただ、思い出しさえすればいい。不可能なことも全力でできていた、あの頃を。

 

 

砂漠に雪を降らせてみなよ

 

四月、大学生活の幕が開く。僕は店の入り口から一番遠い席で、壁に背をつけ、まわりを眺めていた。クラスメイトを眺めながら、どこかさめた気持ちだった。

 

隣にどんと腰を下ろす男がいたので、首を捻ると、まずその髪の毛に目が行った。毛先が上方向と後ろ方向へ飛び散った、髪型だ。鳥類を思わせた。

 

「俺、鳥井っていうんだ」

 

背丈は僕よりも少し高いけれど、横幅はそれほどない。痩身で、胡坐をかくと、その脚の長さが目立つ。僕が、北村、と名乗ると彼は、宴会はずいぶん無軌道になったし、自己紹介も立ち消えになっちゃったな、と幹事に目を向けた。

 

鳥井は、僕の肩を叩いて、立ち上がった。「よし、行くか。女の子と親交を深めないで、何が、大学生だよ」

 

鳥井は少し離れた座卓にいる、二人組の女の子の向かいに座った。「うち、関西人やねん」と言った女の子は、茶色い髪だった。

 

一方の左側の子は、肩までの髪は黒く、顔に化粧もしていない。「東京都の練馬区から来た、南です」と名乗った。

 

隣の鳥井が「あれ」と声を高くしたのはその時だ。「南って、あの南?」と詰め寄った。何を突然、と僕は驚いたが、当の南は笑みを大きくし、「やっぱりそうだったんだ」とうなずいた。

 

座敷の襖が乱暴に開いた。何事か、と誰もが視線を向け、全員の会話がやみ、静まり返った。遅刻した男が入ってきたのだ。男は入って来るなり、座敷の入り口にあるカラオケ機の横に立ち、マイクを手に持った。

 

「遅れてすみませんでした。自己紹介やりますよ。俺は、西嶋です。西嶋というんですよ」

 

 

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