幼い頃の私の一番古い思い出は、彼に頭を撫でられる記憶でした。その手がとても大きかったのを、よく覚えています。
私は彼のことを『お兄ちゃん』と呼んでいました。家同士の付き合いがあった私たちは、必然として子ども同士でよく遊んでいたのです。
私はお兄ちゃんのことが大好きでした。いずれ、「結婚する」なんてことを、恥ずかしげもなく言っていました。
今にして思えば、お兄ちゃんもよく面倒を見てくれたものだと思います。小さい女の子の面倒を見る大変さを考えれてみれば。
きっと、同い年の友だちと、いっしょにボール遊びとかやりたかったのでしょう。私とおままごとなんてするんじゃあなくて。
それでも、お兄ちゃんは嫌な顔ひとつせず、私が遊んでとせがめば、いつも笑顔で遊んでくれました。
だから、私は当たり前のように、お兄ちゃんのことを好きになったのです。お兄ちゃんと比べてしまうと、どうしても同い年の男の子なんて目に入りませんでした。
とはいえ、普通ならば、幼い頃の恋心なんて、時とともに消えていくものなのでしょう。
そうして、同い年の男の子にいずれ惹かれていくものなのだと、しかし、私の中のお兄ちゃんへの恋は、いつまで経っても薄れることはなく、むしろ次第に強くなっていきました。
しかし、お兄ちゃんはもちろん、十歳以上年下の私なんて、眼中にもなかったのでしょう。
お兄ちゃんは顔立ちが爽やかで優しく、運動も勉強もよくできたので女の子からとても人気がありました。
お兄ちゃんに恋人ができたのは、私が小学生の、低学年くらいの頃でした。彼女は落ち着いた感じの女の子で、かわいいというよりもきれいな子でした。
私の頭を優しく撫でて笑いかけられたとき、私は自分がどれだけ子どもかということを、唐突に理解しました。
私はにこにこと笑いながら、けれども、内心は今にも涙を零しそうでした。私ではお兄ちゃんの恋人として隣りに立てないことがわかったから。
今にも暴れ出したいくらいでした。大声で泣き喚きたいくらいでした。彼に嫌われたくないから。ただ、その一心のみで、じっと笑っていたのです。
その彼女とは私が中学生になる頃に別れて、お兄ちゃんが新しい彼女を作ったのは、私が高校生の頃でした。
今度はかわいらしい感じの女性で、お兄ちゃんの隣りできゃっきゃと騒いでいました。
お兄ちゃんに話しかけた時、彼女は明確に敵意を向けてきました。そして、そのあとに、これ見よがしにお兄ちゃんの腕に抱き着くのです。
私は胸の微かな痛みとともに、少しばかりの喜びも感じていました。かつての私と違って、今はちゃんと女として嫉妬してくれたんだな、と。
私は高校を卒業し、大人になっていきます。けれど、お兄ちゃんもまた、同じだけ先に進んでいくのです。私と彼の距離は、ちっとも縮まらないまま。
恋の花が実るか、散るか
白い礼装をきっちり着こなしたお兄ちゃんは、思わず見惚れてしまうほどかっこよくて、あらためて惚れ直してしまいました。
ああ、好きだなぁ。ふと思ってしまって、私は胸を軽く押さえて、自分の中にぽっと湧いたお兄ちゃんへの恋心を抑えつけます。
神父の前にお兄ちゃんが毅然と胸を張って立っていました。その表情はかすかな微笑を浮かべています。
白いウェディングドレスを着た花嫁。私は幼い頃から、この場所に立つことを夢に見てきたのです。
それなのに、どうして、今、お兄ちゃんの隣りに立っているのが私じゃあないのでしょうか。
荘厳な空気の中で、神父の静謐な声が響きます。私はそれをどこか遠い世界のように聞いていました。
お兄ちゃんと新婦がキスを交わします。ベールから覗く横顔は、高校生の時にお兄ちゃんの恋人だった、あのかわいらしい女性でした。
「おめでとう」
「ありがとう」
私が言うと、お兄ちゃんと彼女はとても幸せそうに笑いました。透き通るような、きれいな笑顔でした。
私は自分が途方もなく汚いのではないかと思いました。誰もが笑って幸せを祝うこの日に、私は純粋に彼らに対して祝うことすらできていないのです。
だから、私はお兄ちゃんの隣りに立てなかったのでしょう。二人の幸せそうな後ろ姿を見つめながら、私の頬から一筋の涙の花びらが零れ落ちました。
図書館員たちも恋をする
郁が同期の手塚と話しながら午後の館内を巡回していると、行く手の女子トイレから白いコートを着た若い子が出てきた。そのまま閲覧室へと歩いていく。
そのコートのポケットからハンカチが落ちた。華奢な背中は気付かず歩いていく。
声をかけるが反応はない。少し距離があるから自分のことだと思っていないのか。郁は彼女を追いかけた。
何、無視されてんの? と思ったら、横の通路から上官の小牧が出てきた。女の子を追いかける郁を見て、自分が彼女に追いつき肩を叩く。
気づいた彼女が小牧を見上げて、表情を明るくする。小牧が何か話しかけながら郁の方を指差すと、慌てたように郁を振り向いた。
その弾みで揺れたセミロングの髪に隠れるように耳掛け式の補聴器が見えた。高校生くらいの、まだあどけない感じを残したアンバランスさが逆に魅力的だ。
小牧が言うには、彼女は毬江といって、小牧の知り合いで、耳が不自由らしい。ハンカチを渡すと、携帯でお礼を言って、彼女は閲覧室へと去った。
新しい作家を開発したいと彼女が望んだので、小牧は『レインツリーの国』を勧める。いつもと同じようにささやかな約束を交わし、手を振って帰った。
良化特務機関の襲来は今までにないパターンだった。良化特務機関の車輛は真昼間から武蔵野第一図書館の駐車場に乗り入れた。
良化特務機関の部隊はいっそ悠然とした足取りで正門をくぐった。一行を率いていた隊長が室内を睥睨し、大声で懐から出した書類を読み上げる。
「良化査問会出頭命令書! 容疑者、小牧幹久二等図書正! 上記のものに未成年者及び障碍者への人権侵害の疑いが報告された事由につき、査問会への即刻の出頭を命ずる!」
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