最高のタイミングはいつだろうか?『カンガルー日和』村上春樹


 カーテンを開けると、灰色の曇り空がどんよりと重くのしかかっていた。雨こそ降っていないが、もう少しすれば小雨でも降りそうだ。

 

 

「今日はやめておいた方がいいんじゃない?」

 

 

 僕の身体の向こう側に広がる曇り空を目にしたのか、彼女が言う。どこか諦念に似た彼女の態度が、なぜだか妙に癪に障った。

 

 

「いいや、一週間前から予定していたんだぞ。今さら予定変更なんてしてたまるか」

 

 

 僕が頑なな口調で言うと、彼女は何か言おうと口を開きかけたが、僕が不機嫌なことを感じたのか、そのまま何も言わずに口を閉じた。

 

 

 今日は二人で動物園に行く予定だったのだ。僕も彼女も、その日を楽しみにしていた。休みの日を合わせて、公式サイトのマップを見ながらどのルートで見ようか話し合っていた。

 

 

 それなのに、よりにもよってその日にこの有様だ。どれだけ願っても曇り空は晴れることはない。しかし、雨が降っていないのは、幸いだといえよう。

 

 

「雨が降っているわけじゃないだろう。。ただ、曇っているだけだ」

 

 

「でも降りそうだよ、今にも」

 

 

「降らないかもしれない。このまま、雲が晴れるかもしれないじゃないか」

 

 

 そもそも、天気予報は晴れだったのだ。普段ならば天気予報が外れても大して腹は立たないのに、今日に限っては電話で文句を言いたいほどの怒りが湧く。

 

 

 とにかく、何もかもに苛立って仕方がなかった。すべてはこの曇り空のせいだ。だが、その天気すらも、誰かの陰謀のように思えて、怒りをぶつけたくなるのだった。

 

 

「予定は変えない。今日、動物園に行く」

 

 

「でもさ」

 

 

 彼女が言いにくそうに、おずおずといった様子で口を開く。いつになく機嫌の悪い僕に怯えているようだ。それがわかってはいるものの、自分でもどうしてこんなに腹が立つのかわからなかった。

 

 

「こう、ほら、『なんとか日和』とかって、言うじゃん。何かをするのに適した日とかに」

 

 

 僕は口を開かない。けれど、彼女はどうやら、あくまでも今日の動物園は中止にすべきだという考え方のようだった。

 

 

「でもさ、今日って『動物園日和』じゃあ、ないよね。天気は悪いし、雨が降りそうだし、それに、なんか」

 

 

 あなたも機嫌が悪いみたいだし。最後の言葉は言いづらそうに小さな声で呟かれた。しかし、その態度がいっそう僕を頑なにさせた。

 

 

「今日、動物園に行く。これはもう、随分前から決まっていた決定事項だ」

 

 

 僕が冷たく宣告するように言い放つ。彼女は僕をじいっと見つめたが、やがて、諦めたようにはあとため息を吐いた。

 

 

そのための絶好のタイミング

 

「だから言ったのに」

 

 

 車を運転して帰路につく僕の胸に、今朝の理不尽な苛立ちはどこにもなかった。代わりに、深い後悔が僕の心臓を鷲掴みにしているかのような苦しさがあった。

 

 

「だから言ったのに」

 

 

 助手席から僕を睨む視線と恨めしげな声が零れる。僕が何も言葉を返さないのは、まさしくその通りであり、反論も言い訳も余地がないからだ。

 

 

 車のワイパーが叩きつける雨粒を弾く。動物園に着いたくらいから降り始めた雨は、刻一刻と勢いを増していた。今朝の灰色の雲は今や黒く染まっている。

 

 

 雨の音に包まれたワンボックスの閉じられた狭い空間は、まるで檻の中に入っているかのようだった。

 

 

 僕と彼女との間には気まずさが泥のように身体を横たえている。彼女の恨み言を零す。僕は何も話さない。

 

 

 動物園は最悪だった。ぽつぽつと降り始めた雨はすぐに勢いを増し、無視できるような小雨の範疇を軽々と超えた。

 

 

 僕と彼女は念の為にと持っていた傘を差して、二人で動物を見て回った。冷たい空気が僕たちの身体を冷やし、雨が時々肩を濡らした。

 

 

 地面はぬかるんでいて、新品のスニーカーを汚す。そんな日に動物園に来ている客は、僕たち以外には誰もいない。

 

 

 動物たちは雨を凌ぐために奥へと引っ込み、満足に見れたのは室内の動物だけだった。期待した走り回る動物たちの姿はどこにもなかった。

 

 

 そして、朝の会話から僕たちの間に生じたもどかしさもまた、心に影を差すのを手伝っていた。

 

 

 僕と彼女はひとことも交わすことなく、動物園を見て回った。なにひとつ楽しいと思える瞬間はなかった。

 

 

 楽しみにしていた動物園がこんな結果になった理由は明確だった。僕が天気が悪いのを無理に彼女を押したからだ。

 

 

 しかし、奇妙なプライドが彼女に謝罪をすることを躊躇わせていた。そのプライドが無駄であると知りながら、どうしても捨てることができない。

 

 

 その過程で生まれたのが沈黙だった。重い沈黙の中で、僕と彼女はただ、互いに視線を合わさないようにしていた。

 

 

 やはり、彼女の言うとおりに日を改めた方がよかったのだろうか。そんな後悔が胸中に渦巻いている。

 

 

「また、別の日に行くか?」

 

 

 僕は内心では勇気を振り絞って、しかし、表面上は何気ないふうに声をかけた。彼女は窓の外を見ていた。

 

 

「行かない」

 

 

 その言葉には、もう二度と動物園に行かないのだという諦念があった。僕は答えることもできず、再び雨の降りしきる道路を見つめた。

 

 

 僕は急くあまり、タイミングをつかみ損ねたのだ。その代償として、僕たちはもう二度と、動物園にいっしょに行くという機会を永遠に失ったのである。

 

 

都会の片隅に広がるささやかなメルヘン

 

 柵の中には四匹のカンガルーがいた。一匹が雄で二匹が雌、あとの一匹が生まれたばかりの子どもである。

 

 

 カンガルーの柵の前には、僕と彼女しかいない。月曜の朝だ。入場客よりは動物の数の方がずっと多い。

 

 

 我々の目当てはもちろんカンガルーの赤ん坊である。それ以外に見るべきものなんて何も思いつかない。

 

 

 我々は一月前の新聞の地方版でカンガルーの赤ん坊の誕生を知った。そして一ヶ月間、カンガルーの赤ん坊を見物するにふさわしい朝の到来を待ち続けていたのである。

 

 

 しかし、そんな朝はなかなかやってこなかった。ある朝には雨が降っていた。次の朝にもやはり雨は降っていた。その次の朝には地面がぬかるんで、続く二日間は嫌な風が吹いていた。

 

 

 そんな風にして一か月が過ぎた。

 

 

 しかし何はともあれ、カンガルーを見るための朝はやってきた。我々は朝の六時に目覚め、窓のカーテンを開け、それがカンガルー日和であることを一瞬のうちに確認した。

 

 

 我々は顔を洗い、食事を済ませ、猫に食事を与え、洗濯をし、日除け帽をかぶって家を出た。

 

 

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