「ん~、ほっぺた落ちそうやあ。相変わらずあんたはとろいくせにお菓子作りだけは逸品よなあ」
彼女は普段はマスカラをつけた大きな目を糸のように細めて、ぷくっと膨らんでもごもごと蠢くほっぺたを両の手で落ちないようにぴったりと押さえる。
いつもはきりっとした吊り目の近寄りがたい美人の彼女も、なんとまあ、ふっくらとしたえびす顔。
突き放したような冷たい唇から零れ落ちる甘くとろけた声に誘われて、他の子たちも俺も私もと手を伸ばす。
袋の中のクッキーは一枚、また一枚と消えていき、あっという間に最後のひとつ。
「あ、ごめん。食べ過ぎたわ」
そのことに我が返ったように気がついて、申し訳なさそうに視線を伏せる。クッキーが減っていく様を真ん中でにこにこ眺めていた私は、胸の前で手を振った。
「ええよ、ええよ。そんだけ食べてもろうたら作った甲斐があったってもんや」
「でも、あんた、自分ではちっとも食べんで。食べ過ぎたうちらが言うのもなんやけど」
「せやでえ。なんで自分で作ったんに遠慮しとるん。こんなにおいしいクッキー、うちなら自分で全部たいらげるわ」
そんなんしたら太るで。うっさいわ、阿呆。なんてみんなが笑う。けど、彼女らの言葉には私への気遣いが込められていて、心がぽわっと温かくなる。
「ええんや。うちはみんながうちのお菓子食べてくれて、おいしいおいしい言うてくれたら満足や。だから、これも」
私は最後の一枚だけ残ったクッキーを手に乗せて、教室の隅に座っている男の子のところへと向かった。
男の子も、女の子も、みんなが食べてくれていた中で、彼だけはずっと席に座っていたままだった。
けれど、私は知っている。彼がちらちらとこちらの方に混ざりたそうに視線を送っていたことを。
そして、彼の友人から、彼が無類の甘党だということも、私はしっかりとリークされていたのだ。
「これ、食べる?」
私がクッキーを差し出すと、彼の視線は私の顔とクッキーを交互に忙しなく見比べた。顔がみるみるうちに林檎飴みたいに赤く染まっていく。
「あ、あり、がとう」
彼はかすかに震える手でクッキーを受け取った。まるで神聖なものを受け取るかのような厳かな受け取り方だ。私が微笑むと、彼はいっそう顔を赤らめた。
彼はそのままクッキーを口に運ぶ。カリッと心地よい音がして、クッキーの円形がほろほろと崩れた。
すると、さっきまで緊張に強張っていた彼の顔がほうととろける。目尻が下がり、自然と口角が上がっていく。
これや。私は内心でガッツポーズをした。この何もかもが蕩けて、ただ口の中の甘さを味わうその笑顔。
振り向くと、みんながしゃあないなあというような呆れる視線で見ていた。私はそんな彼女たちに、にっこりと笑顔を返す。
最高の甘み
さて、次は何を作ろか。私はほくほく顔で考えながらベッドに寝転ぶ。みんなの笑顔を思い出すと、自然と顔がほころんでいく。
一年生の頃には考えることもできなかった幸せな日々。私はその幸せを噛み締めるようにほっぺたに手を当てた。
一年生の頃、私はみんなとうまく馴染めなかった。引っ込み思案で動きものんびり、彼女たちのめまぐるしい会話にはくるくる目が回った。
いじめられていたわけじゃない。けれど、どうしても彼らの会話には入れない。入れたとしても、それは一昔前の話題で白けさせてしまう。
でも、どうすればええんやろか。思い悩んで、現実逃避にと引っ張り出したのは、一冊の本。
紫はなな先生の『かまどの嫁』。妖や神様が出てくる和風のファンタジー作品だ。
主人公の鹿の子はみんなから煙たがられているかまどの嫁。陰口を叩かれながらも、一心不乱にかまどに向かって菓子を作る。
妖、神様、魑魅魍魎。彼女の周りにいる有象無象は、霊力のない彼女には見えやしない。彼女に見えるのは彼女の菓子を気に入ってくれるクラマだけ。
けれど、そんな彼女が作るお菓子は絶品。誰もがその味に頬を蕩けさせる。そこから繋がっていく甘いご縁。
私はこの本を読んだ時、鹿の子のことが一気に好きになった。誰も見ていないのに、ただひとり、頑張る女の子。
そんな彼女を見つめる優しい視線はいくつもあるのに、彼女はそれに気がつけない。なんて切ないお話なんやろ。
でも、次第に彼女の頑張りは認められていく。けれど、彼女はかまどの前で、みんなのためにお菓子を作り続けるのだ。
お菓子の描写はなんともおいしそうで、すぐにでも食べたくなってくる。読んでいる時の私は涎たらたらやった。
餡子と求肥に包まれた甘い甘い物語。けれど、結末はなんだか甘じょっぱい。なんやろと思ったら、私の涙のせいやった。
鹿の子みたいになりたいと思った。自分のためじゃなく、みんなのために頑張れるような、そんな女の子に。
だから、お菓子作りをやってみることにした。最初は失敗ばかり。黒焦げになった苦いお菓子の味は今でも忘れられん。
ようやく満足いく味のお菓子が作れるようになって、でも、自分で食べようとは最初から思わなかった。
「これ、作ったんやけど、食べてみてくれる?」
初めてみんなにそう言ってみた時の、あの時のドキドキは今でも覚えている。あんなに勇気を振り絞ったことは今までの人生の中で一度もない。
「へえ、きれいな色のクッキーやなあ。ひとつもらうわ」
いつもはおどおどしている私が突然話したことに驚いていた彼女は、けれど、笑ってもらってくれた。
一枚齧って、そして目を見開く。気に入らんかったんやろか。私は恐怖で今にも逃げ出したいくらいやった。
けれど、途端、彼女の顔がぱあっと花咲く。まるで向日葵でも咲いたみたいな明るい笑顔。
「え、めっちゃうまいやん。これ、あんたが作ったん? やるなあ、もうひとつちょうだい」
「え、ええよええよ。好きなだけ取ってって」
「ほんま? ええの、そう言われたら止まらんなるで」
彼女がひどくおいしそうに顔を緩ませて食べているのを見て、他の女子たちもごくんと生唾ひとつ呑み込んでうちもうちもと駆け寄ってくる。
私のお菓子でみんなが笑顔になってくれる。こんなにも嬉しいことなんや。だから、鹿の子はあんなにも頑張って作ってたんやな。
よし、決めた。幸せな思い出に浸っていると、次に作りたいもんが決まった。私はベッドから起き上がる。
私のお菓子はみんなのために作ったもんや。もちろん、甘いもんは好きやけど、みんなの笑顔を見ていると、どうしてか私もおいしく感じてくる。
明日は栗鹿の子やな。栗の甘みと小豆のつぶつぶ。涼やかな寒天の冷たさ。みんな、喜んでくれるやろか。甘い期待に、胸を震わせながら。
お菓子が人の心も妖の心も甘くほどいていく
国の名は風成。行き交う人はみな涼やかな顔して歩く晩夏にひとり、あくせく汗かく娘がいた。
娘がいるのは風成でもっとも清らかな神殿。陰陽師家の中でもお国唯一の氏神様、お稲荷様を祀る陰陽師宗家、小御門家の神殿。
お社まわりには甘いもん好きの神々や幽鬼が往航し、ちいさい鬼から大きな妖まで日夜ひしめいている。しかし、それらが微塵も見えない娘は我関せず、今日もせっせと働いていた。
そんな娘の背に冷然と立つその美男子は名を久助といい、当主である旦那様に仕える式の神である。
妖は見えなくても、式の神は見える。音もなく流麗に去るその後ろ髪に見惚れながら、娘はほぅとひと息吐いた。
皿を御神前へと運ぶ。こればっかりは、娘ではいけない。娘が皿を持てば、すばしっこい妖に舐め干されてしまうから。
娘の名は鹿の子。いつまでたってもあちら側へ渡れない、かまどのはりつき虫。
炭で顔も御髪も真っ黒、下衣にはぐっしょり絞れる汗。貧相な小豆みたいななりをして、陰陽師宗家、小御門家の側室でございます。
他の奥方や奉公人、使い奴までもが鹿の子のことを「かまどの嫁」と呼ぶ。旦那様に見放された、かまどの嫁と。
風成という国、王朝国家にあり。当主の跡取りは嫡男ではなく、もっとも霊力が優れたものが選ばれる。故に側室は霊力のある娘が望まれた。
しかしながら、鹿の子は全くの霊力なし。それを嫁いできた初夜、旦那様に見抜かれ追い出されたらしい。なんとまあ、その晩からかまどの見張り番。
鹿の子は作ったら作った分だけ、惜しみなく釜の蓋を開ける。三日に一度でいい釜炊きが毎日朝から晩まで止まらず、煙たくて仕方ない。煙たいから煙たがれる、かまどの嫁なのである。
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