青年と吸血鬼の出会いから全てが始まった『傷物語』西尾維新


 ああ、喉が渇く。私は忌々しげに喉を掻き毟る。しかし、それでもこの堪えがたい渇きを癒すことは出来ない。

 

 

 渇きを癒す方法は知っていた。ただ、歯を突き立てて、吸えばいい。簡単なことだ。私はそれを本能的に知っていた。

 

 

 しかし、どうしても、それを実行に移せないでいた。嫌悪、自負、誇り、こうなってしまっても、そこまでは堕ちまいという、葛藤。胸に秘めた、人間性。

 

 

 それは今やもう僅かなものになってしまったが、それでも私はその小さな輝きを抱きしめるように大切にしていたかった。

 

 

 それはかつての何も知らなかった頃の私が生きていたという、たったひとつの証明なのだ。

 

 

 これを失くしてしまった時、私は本当の怪物になってしまうのだろう。人の姿をしていながらも、人ではない存在に。

 

 

 このまま何も飲まずにいれば、私はなくなってしまうだろう。こうしている間にも、力が衰えていくのがわかる。

 

 

 自分の命と、人としての尊厳を天秤にかける。私の中の比重は尊厳の方が重たかった。

 

 

 どうしてこうなってしまったのか。つい数日前までは、私はそこらにいるようなただの人でしかなかったのに。

 

 

 あの時、夜に出歩きなんてしなければ。あの時、いつもの曲がり角を曲がっていれば。あの時、すぐに踵を返して逃げていれば。あの時、あの時、あの時。

 

 

 どれだけ後悔しても、結果が変わることはない。私はもう、こうなってしまったのだから。

 

 

 今でも覚えている。暗闇の中に垣間見えた真っ赤な二つの光。そして、次の瞬間には首筋に走った、鋭い痛み。そして、眠りに落ちるような心地よさ。

 

 

 自分という存在が首筋の傷から吸い取られていくように感じた。私はあの時、今まで生きていた全てを失い、ただの残りかすになったのだ。

 

 

 『傷物語』の阿良々木暦を思い出す。今ならば、彼の気持ちがよくわかった。怪物でありながら、人間でありたいという、葛藤。

 

 

 いっそ、怪物として割り切れたならば、思うがままに振舞うこともできただろう。

 

 

 力は情人を遥かに超える。獣どころか霧や、闇にさえ姿を変えることだってできる。傷つけられても命尽きることはなく、他人の心さえ思い通りだ。

 

 

 しかし、たとえひとつであってもそれをしてしまったその瞬間、私は人間性を持った怪物からただの怪物になってしまうだろう。

 

 

 ならば、私はせめて、人のままに。それだけが私の最後の願いだった。

 

 

人間と化け物の境目

 

「大丈夫、ですか?」

 

 

 おそるおそるといったように、かけられたソプラノの声で、私は目を開いた。頬に冷たいアスファルトの感触がある。

 

 

 どうやら、気づかないうちに行き倒れていたらしい。私は道路に寝そべるようにして意識を失っていた。

 

 

 声をかけてきたのは、大人しそうな少女だった。セーラー服でいるところを見るに、近隣の学校に通う学生だろう。

 

 

 その白い喉が眩しく私を誘った。喉の渇きが私の中で暴れ出している。思わず、口から、喉が渇く、と呟いていた。

 

 

「え、えっと、喉が渇いているなら、飲みますか」

 

 

 私の前に、銀の水筒が差し出された。中から揺れる水音が反響してこだまする。私はそれを手で返した。

 

 

「いや、いらない」

 

 

「でも」

 

 

「いや、本当に、いらないんだ」

 

 

 私の喉の渇きはそんなものでは消えない。むしろ、私は自分を抑えることで必死だった。気を抜けば、すぐにでも彼女の首筋に噛みついてしまいそうだった。

 

 

「そ、そうですか。じゃ、じゃあ、せめて病院に」

 

 

「いいから。放っておいてくれ」

 

 

 携帯を取り出す彼女に、少し強く言う。久しぶりに味わった人からの無償の優しさは胸に沁みたが、だからこそ、彼女には早く去ってほしかった。

 

 

「で、でも……」

 

 

 それでも、彼女は去らなかった。気遣わしげに私にちらちらと視線を送る。その様子を見て、私は嘆息した。もう、どうせ私は長くない。ならば、なんでもいいと思ったのだ。

 

 

「私は、化物だ。今も、喉が渇いて堪らないが、その渇きは水では癒されない。私を助けるというのなら、君の血を飲ませてくれ」

 

 

 こんなことを言われたなら、怪しいとも、どうかしているのだろうとも思われても仕方があるまい。それで逃げてくれたならば、それでもよかった。

 

 

 しかし、彼女は。私を怯えたような瞳で見て、そして、私の前に身をかがめると、目を閉じて、首を差し出した。

 

 

「どうぞ」

 

 

 私は絶句した。彼女の細い肩はかすかに震えていた。息遣いが荒い。閉じられた睫毛からは今にも涙が零れそうだ。

 

 

 私はもう、衝動を抑えることはできなかった。目の前に焦がれていた白い喉があった。目の前が赤く染まる。私は、彼女の首筋に、牙を。

 

 

 私はその夜、人間をやめて化け物になった。

 

 

怪異の王と青年の出会い

 

 いつのことかと思い出せば、それは春休みの直前である三月二十五日の土曜日、終業式の日の午後のことだった。

 

 

 そのとき僕は、通っている私立直江津高校の付近を、漫然とそぞろ歩いていた。本当に何の用もなく、そぞろ歩いていたのだ。

 

 

 そこで僕は、意外な人物を見かけた。同じ学年の有名人、羽川翼が、僕の正面から、歩いてきていたのである。

 

 

 羽川翼から吸血鬼の噂などを聞きながら、最後に携帯のアドレス帳の一番上に彼女の名前が登録される形で別れた。

 

 

 終業式の午後にこんな風にすれ違った彼女と、春休みの最中に会うことになるのだが、しかしそんなことはこの時点ではわかるわけもなかった。

 

 

 そして、そんな記憶も冷めやらぬ、その日の夜のことである。夜。僕は、すっかり真っ暗になった町の中を、やはり徒歩で移動していた。

 

 

 書店の閉店間際を目掛けて飛び込んだとはいえ、ぶらぶらと歩いているうちに結構な時間になっていた。

 

 

 というか、日が変わってしまっていた。すでに三月二十六日である。たった今、この瞬間から春休みである。

 

 

 家を出た時よりもさらに暗くなっている。これでクルマにひかれでもしたら馬鹿馬鹿しい。

 

 

 基本的には杞憂のようなものである。それにしても、ちょっと暗すぎる。そう思って空を見上げると、原因がわかった。

 

 

 街灯の明かりがほとんど消えているのだ。点灯しているのはたったの一本だけである。故障だろうか。

 

 

 そんなことを思いながら、しかしあまり気にすることもなく、そういうこともあるだろう程度の認識で、僕は歩みを進めた。

 

 

 しかし、妙に古風な呼びかけに思わず反応する。声のした方向を見た僕は絶句した。

 

 

 この辺りで唯一点灯していた街灯の下。その街灯に照らされて、『彼女』はいた。

 

 

「儂を……助けさせてやる」

 

 

 田舎町にはとても似合わない金髪。整った顔立ち。冷たい眼。ぼろぼろのドレス。四肢の切り落とされた、影のない『彼女』。

 

 

「我が名は、キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード……鉄血にして熱血にして冷血の吸血鬼じゃ」

 

 

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