「『ハンニバル』という映画を、君は知っているかな?」
ええと、なんだっけ。聞いたことがあるような気はする。けれど、どうにも思い出すことができなかったから、私は肩を竦めた。
彼はそれを意に介すこともなく、思い出すように視線を泳がせながら、話を続けた。
「トマス・ハリス先生の『羊たちの沈黙』っていう作品の続編らしくてね。僕はそれを一度だけ見たことがあるんだよ」
といっても、最初から見たわけじゃないし、断片的にしか覚えていないんだけれどね。彼は首を横に振る。
「その映画で有名なのが、ハンニバル・レクターっていう登場人物なんだけれど、その人がえらく有名で人気なんだよ」
へえ、そいつはよっぽどなんだな。どんなキャラクターなんだ? 私は聞いてみた。けれど、彼は答えず、そのまま映画を語る。まるで映画を語ればその答えがわかるとでも言うように。
いや、そもそも、そういえば彼はそんな性格だった。話が噛み合わないなんてことは、彼との会話の中で珍しくもなんともない。
「その映画の一場面にね、衝撃的なのがひとつあったんだ。僕はそれがどうしても忘れられなくて」
よくもあんなシーンを地上波で流せたもんだよね。なんて彼は言うけれど、その響きに避難の色は感じられなかった。
「ああいう人間って、いったい何を考えているんだろうね」
「ああいう人間って?」
ほら、だから、ハンニバル・レクターみたいな人間ってこと。ああいう、私たちとは違う価値観で動いている人。
「さあね。知りたいとも思わないかな。あんな残酷なことが平気でできる人なんて」
私はどこか侮蔑を込めてそう言った。ハンニバル・レクターは魅力的なキャラクターなのだろうけれど、ただの悪人以外の何ものでもない。
社会に生きる真っ当な人間としては、理解できないし、理解なんてしたくもないところだった。わかるのは、まず許せないだろうということだけ。
友人はふうん、と言った。どうやら、彼は私とは違う意見を持っているらしい。まあ、そうじゃなきゃあ、こんな質問なんてしてこないだろうけれど。
「同じ人間とは、到底思えないよ」
そう、それこそまるで、『怪物』のような。私の答えに、彼はまた、ふうん、と答えた。
それぞれが立っている場所
『価値観の違う人間を同じ人間とは思えない』と言い切った友人を、僕は見つめた。
僕はこの友人とはずいぶんと長い付き合いにはなるけれど、時々どうして友人をしているのかわからなくなることがあった。
友人には、時々、人間を人間と思っていないような、そんな印象を抱かせる言動があった。それこそ、ハンニバル・レクターのような。
本人は自覚していないだろう。いや、間違いなくそうなのだ。社会常識に合わせて、どうにか溶け込もうとしている印象を受けた。
クラスのみんなは友人のことを気のいいやつだと思っている。友人のその不気味な内面を知っているのは、付き合いの長い僕だけだろう。
たとえば、もしも、友人の目の前でクラスメイトが弾け飛んだとしても、特になんとも感じないような、そんな欠落が見えることがあった。
価値観が違う人間は人間じゃない。そう思える価値観が何より異常なのだと、友人は気づいていないのだろう。
僕にとっての友人は怪物そのものだった。あからさまに、自分や、社会とは別の場所にひとりで佇んでいた。
それはきっと、自分の世界なのだろう。僕と友人の見える世界は当然違うのだろうけれど、友人は見るどころか住んでいるのだ。
僕たちとは別の世界に。だからこそ、こちらの常識が通じない。こちらの言葉が通じない。
価値観の違いは、そのまま互いの相容れなさの表れだった。友人の思考はあまりにも異質すぎて、パズルのピースがちっとも合わないのだ。
じゃあ、どうして僕がそんな友人にずっと付き合っているかというと、友人には僕しかいないことを知っているからである。
子どもと話すにはどうするか。当然のように、膝を曲げるだろう。視線を落として、視線を合わせる。同じことをするだけだ。
価値観はステージの高さの違いだ。そんな遠くで話が通じるわけもない。だからこそ、優れた側が視線を合わせてあげる必要があるのだ。
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