「やあ、君も来たのか」
手を軽く上げて迎えてくれる彼に、私は同じように手を上げて答えた。彼は寝転がったまま、腕を枕にしている。
「君も聴くかい?」
いや、どうせ第九でしょ。私が言うと、彼は当然のようにそうだがと返す。第九は何度聴いても素晴らしいというのが彼の主張だった。
屋上には、私と彼の二人だけだった。もちろん、私も彼もそれを承知していた。むしろ、私たちだけだったからこそ、ここにいるのだと言えるだろう。
私は彼の隣りに腰かける。しかし、特に何を話すわけでもない。彼はぼんやりとした顔で空を眺めているし、私はなんとなく、そんな彼を見ていた。
私たちは初めて会った時からこんな感じだった。私も彼も話すのが嫌いで、話されるのも嫌いで、けれど誰かといるのは嫌いではなかった。
彼が友人かと問われれば、わからない。私は彼が嫌いではなかったし、彼もきっと私が嫌いではないのだろうけれど、友人と呼べるほど私と彼は互いを知らないのだ。
じゃあどうして屋上で二人だけで過ごしているかと訊かれると、教室にいたくなかったからである。
私も彼もそれぞれの理由でクラスメイトたちが嫌いだった。そんな彼らから逃げてきた私たちが会ったのは、ある意味必然だったろう。
彼は私のことを知らないだろうが、私は彼のことを多少なりとも知っていた。というのも、彼は校内でも屈指の有名人だったからだ。
彼は天才である。廊下に貼り出されたテストの点数ではいつだって彼の名前が一番上にあった。
しかし、頑張って高得点を取っているならば、それは天才ではなく努力家である。彼はそうではないのだ。
彼はいつも寝ている。テスト前の休み時間ですらも突っ伏して寝ている。授業中にはノートにでかでかと落書きをしていて、黒板すら写そうとしない。
それなのに、彼は高得点を取るのだ。取ってしまうのだ。だからこそ、彼は素行不良とテストの点数を合わせて有名になった。
もちろん、彼に嫉妬をする者もいた。不正をしているのではと疑った者、コツを教えてとせがむ者、崇拝に近いほど彼を尊敬する者もいた。
しかし、彼はもちろん不正なんてしていないし、嫉妬した人たちは当然のように彼より点数が低い。彼からノートを借りた人は、彼の一時間かけた力作のイラストを目にして諦めた。
とはいえ、そんな連中ばかりに絡まれるとなると、それは嫌になるのもわかるだろう。本人はなまじ自覚がないものだから、勝手に騒ぐ周りに辟易していた。
屋上で彼を見かけて、話すようになってから、どうして彼は私とは仲良くしてくれるのかと疑問に思ったことはある。
私たち凡人の視線の先には彼のような天才がいる。私たちは彼らを見て、自分と比べて、才能の有無をわざとらしく嘆くのだ。
彼はいつも空を見ている。彼の見つめるその空の先には、いったい何があるというのだろう。
天才の見る世界
僕は屋上で空を見上げていた。首にかけたヘッドフォンからは第九が聴こえてくる。
ベートーヴェンは音楽家としてもっとも大切な耳を失った。しかし、その中でも彼はこんなにも素晴らしい曲を作り上げたのだ。
苦悩がなければ歓喜はない。そこにはできて当然のことが並んでいるだけだ。なんて世の中はつまらないんだろう。
僕は空を見ながらも、内心では空のことなんてどうでもよくて、ただ頬に突き刺さる視線の持ち主のことを考えていた。
僕のただひとりの友人だ。友人、だよな。わからないけれど、僕は友人だと思っている。
初めて会ったのは僕が屋上で寝ていた時だった。その瞳が驚いたように見開かれたのを覚えている。
僕たちは何を話すでもなく、何をするでもなく、ただ隣に座って、過ごしていた。そんな奇妙な関係だった。
けれど、その時間はひどく心地よかった。というのは、何も話さないから、とか、そんなことじゃなくて、ただ隣に寄り添ってくれているからだろう。
僕は天才だと言われている。誰もが僕のことをそう言う。嫌味じゃないよ。事実として語っているだけだ。
心酔してくれる人はいた。嫌味を言ってくる人もいた。コツを教えてと懇願してくる人もいたし、陰で嫌がらせしてきた人もいた。
友人は僕がそんな、いろいろ言われることが嫌になって屋上に来ているのだと思っている。それは少しだけ正しくて、けれど違う。
僕はただ、彼らが僕のことを天才だというのが嫌だった。彼らが自分たちを下に下げていくのが嫌だった。必死で僕より上に立とうとするのが嫌だった。
僕と彼らは大した違いなんてないはずなのに。
初めて隣に座ってきたのが友人だった。話も何もしないけれど、友人だけは僕を天才ではなく、ありのままの僕として接してくれた。
僕は友人のようになりたい。友人は成績がいいでもない、がんばって勉強して、そこそこの点数を取る凡人だ。
僕は凡人になりたい。嫌味だなんだと指を差されることもあるけれど、それが僕の心からの願いだった。
苦労のない人生なんて、何の意味があるのか。苦難を苦労して乗り越えてこその人生なのに。
僕は空に手を伸ばす。友人が僕の伸びた指の先を見ているのがわかった。ほら見なよ、天才なんて呼ばれていても、僕はみんなと同じ届かない大地の上に立っているんだ。
天才だらけの孤島の密室
それは、凄惨な光景だった。気味の悪いマーブル色の皮が、かなみさんのアトリエ、そのこちら側半分に描かれていた。
昨日の地震で倒れたというペンキなのだろう。しかし、それだけでも十分に異常な光景なのだけれど、問題は、その川の向こう側だ。
首から上が存在しない人間の身体がうつ伏せに倒れているのだった。その頭部の欠損した身体は、昨日彼女が着ていたのと同じ服を着ていた。
彼女の身体が倒れている近くには、一枚のカンバス。カンバスに描かれているのは、どうやらこのぼくのようだった。
玖渚を見ると、下唇を突き出して、なんだか訝しげに、不思議そうに、彼女の身体を見ていた。
「皆さん、ダイニングに集合していただけますか? 今後のことについて、色々と話し合う必要がありそうですから」
イリアさんはそう言って廊下を無効に歩き始めた。その後ろを、慌てたように四人のメイドさんたちがついていく。
その後も三々五々、他の人たちも同じように、かなみさんのアトリエを後にした。最後に残ったのは、ぼくと玖渚と、――それに深夜さんだった。
目の前の事象を理解できないかのように、理解することそれ自体を脳が拒否しているかのように、深夜さんは立ち尽くしていた。
深夜さんと彼女がどういう関係だったのか、ぼくは知らない。だけれど。昨日の夜の、寂しそうな目。そして今の深夜さんを見ていれば、それは何となくわかる気がした。
こうして平穏だった島での生活は、幕を閉じた。そして次の幕が開いていく。
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