壊れた人間なんてのは、一見すれば普通の人間と変わらない。けれど、たしかに何かがおかしいのだ。
道行く人間たちは一見すると、何も変わらないように見える。それは、個性も何もないただのマネキンが歩いているのと何も変わらない。
この中の誰もが、毎日に不満を零しながら、仕事や学校に向かっているのかと言われれば、たぶん、そうなのだろう。
実のところ、わからないものだ。たとえば、この中にひとりやふたり、壊れた人間がいたとしても。
あそこで時計を見ながら小走りで駆けていくサラリーマン。彼がこのあと、駅のホームで線路に飛び込む、なんてどうだろう。
そんな未来なんてきっと彼にしか見えていない。彼が仕事が辛いとか、妻に逃げられたとか、そんなことは誰も知らないのだ。
人は人を知った風に語るけれど、結局のところ、誰一人として他人の心なんて理解する事はできないのだろう。
自分のことは自分が一番よく知っているとも言うけれど、そして、それを否定する人もいるけれど、きっとそれは正しい。
誰が見ても壊れていない、ただのマネキンの中身が、実はもうズタズタに壊れていることなんて、わかるのはその人自身しかいないのだ。
なんて言ってみたりして。彼はこの後会社に行くのだろう。そして上司に頭を下げながら、額に汗して働くのだろう。
世の中なんてのはそんなもので。誰もがそれを普通のことだと思っていて、その普通のことすらできない人間を壊れている不良品だと切り捨てる。
そんなどうしようもなく壊れた世の中を、誰もが壊れていないと言いながら、毎日過ごしているのだ。
高層ビルの屋上から飛び降りてみたい。思ってもいないし、思ったこともないけれど、なんとなく口に出してみる。
鳥になりたいと思った。特に理由はないけれど、人間じゃない何かになりたいと思った。
流れていく人の波に乗ったまま、私は駅のホームへと足を踏み入れる。電車の来訪を知らせるアナウンスが鳴り響いた。
ふと、電車の前に飛び出す人影がある。衝突音。悲鳴とざわめき。駅構内はパニックだった。
彼はきっと、鳥になりたかったのだろう。私は逃げ惑う人たちを眺めながら、漠然とそんなことを思った。
誰か、頼む、頼むから、どうか私を
『嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん』を閉じて、心なしか小走りで店を出る。店員の恨みがましい視線が店を出てから角を曲がるまで背中に突き刺さっていた。
彼らのような人間に、人が抱くのはどういった感情だろうか。同情。憐憫。忌避。恐怖。嫌悪。悲哀。憤怒。疑問。好感。愛情。恋慕。
けれども、私は彼らに憧憬を抱いた。あのサラリーマンが鳥になったように、私も彼らのようになりたいと願った。
お前は恵まれているんだ。だから、周りの人に感謝して、真っ当に生きなさい。こんなことをよく言われたのを覚えている。
けれど、そもそも誰が恵まれたいと願ったのだろうか。私はたしかに体の不自由もないし、心身共に健康だけれど、そうなりたかったわけじゃないのに。
むしろ、私は壊れたかった。高校生の頃に『ドグラ・マグラ』を読んだのも狂いたかったからだ。結局、なんともなかったけれど。
私たちの背中にはネジがある。ぜんまいじかけのネジが。私たちは社会のおもちゃで、社会はそのネジを回して私たちを働かせているのだ。
そんな大きなおもちゃ箱の中で、ネジを巻いてもまともに動かないおもちゃなんて、社会からぽいと捨てられてしまう。
誰もがそうはなりたくないから、身体が軋んでも、どれだけ痛くても、ネジを巻かれたら必死に身体を動かしているのだろう。
そして、壊れたおもちゃたちはそんなふうに動いているおもちゃを羨ましそうに眺めているのだ。自分も壊れていなければ、なんて。
でも、壊れていなければ、いつまでも動き続けなければならない。どれだけ辛くても、プラスチックの顔を笑ったままで。
私はそれが堪らない。油なんて差されたくはない。ゴミ捨て場で、自分の生まれを、自分の人生を延々と呪い続けた方が、ずっといい。
なんて、そんなことを言ったら、どちら側からも怒られてしまうのだろうけれど。
そう考えると、世の中なんてのは、どこに行っても変わらないんだろうなって思う。天国も地獄も地続きで、どこもかしこも青い芝生ばかりだ。
ああ、やっぱり、人間なんてのは、嫌だな、うん。鳥がいい。天国にも地獄にもいない、人間以外の何かがいい。
私は足を一歩、踏み込んだ。下から風が吹き上げてくる。その日、私はようやく、鳥になった。
どうしようもなく壊れた二人
ここは田舎で取り柄のない街だけど、最近は二つの事件がテレビで注目を浴びている。連続殺人事件と、ひとつの失踪事件。
ここ何か月もの期間に街を襲っている、悪意の極み。そしてさらに、殺人以外に発生したのが三週間前の失踪事件だ。
御園さんを尾行し始めて、二十分以上経っていた。御園さんの背中が辞典ほどの大きさに見える程度に距離を取って歩く。
やがて、舗装された道路に入り始める。ぽつぽつと一軒家も見受けられるようになり、他人の生活区に踏み込んだ気分になった。
今の行いは純然たるストーキングに思えるかもしれないが、それは似て非なるモノだ。
人気のない建築物の群れを通り過ぎて、御園さんは交差点を越えた先にあるスーパーへ向かっていく。一時間を費やしようやく、御園さんは袋を左手に提げて戻ってきた。
御園さんは交差点を右に進んで、新興住宅街の中心部へ向かう。そのアパート、マンションといった貸家が並ぶ地区に、一人暮らしの女子の住処はある。
ここまで、スーパー以外に御園さんの寄り道はなかった。そうなると御園さんのお家にお邪魔したいところだけど、泥棒ごっこはとても無理だ。
だったら、方法はひとつ。自分で開けられないなら、家主に開けてもらえばいい。
「あ、荷物は持つよ」
小走りで駆け寄り、さも当然のような振る舞いでビニール袋を拾い上げ、半ば御園さんを押しのけるように入り口の扉をすり抜けた。
御園さんが虚を突かれている隙に、余裕綽々を演じて玄関に上がり込む。靴を適当に脱いで、足音を強く立てて居間へ向かう。
振り向くと、御園さんが殺気立った、能面顔で距離を取っていた。手近にあった花のない花瓶を武器として構えている。
「久しぶりだね」
一泊置いて唇を舐め、種明かしのようにその名を口にした。
「まーちゃん」
彼女の持っていたスタンガンと花瓶が、同時に床へ落下した。御園さんの小鹿のような足が、一歩距離を詰める。
「みぃ、くん?」
……八年ぶりの懐かしい名称だ。
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