救いのない結末『Fate/Zero』虚淵玄


「正義とは、なんだろうか」

 

 

 彼は怪しげな笑みを浮かべて私に問いかける。私は答えず、彼をじっと見つめた。

 

 

 漆黒のスーツを着た男。顔は闇に包まれて見えない。だが、どこかで聞いたことがあるような声だった。

 

 

「弱き者を救う、それが正義だろう」

 

 

 沈黙の末に、私はそう答えた。そうだ。私はそのために警察官になったのだから。

 

 

 しかし、彼はその答えを嘲るように笑う。かすかに見える口元が大きく弧を描いて歪んだ。

 

 

「では、お前はトロッコのスイッチを動かさずに老人を救うというのだな。五人の作業員を犠牲にして」

 

 

「それは……」

 

 

 私は言葉に詰まった。彼はそんな私を見て、愉快そうに笑う。トロッコ問題。そういうものがある。

 

 

 トロッコの線路上に五人の作業員がいる。誰もがまだ若く、精悍な青年たちだ。しかし、このままトロッコが進むと、彼らの命は無残にも散らされてしまうだろう。

 

 

 彼らを救うためには、線路の軌道を変えるスイッチを動かす必要がある。そうすれば、トロッコは別の線路に移り、彼らは助かるだろう。

 

 

 だが、そちらの線路にはひとりの老人が立っている。トロッコがそちらを向かえば、老人の脆い枯れ枝のような身体など瞬く間に潰れてしまうだろう。

 

 

 弱者を救うというならば、老人を救うためにスイッチには触らずにおくべきだ。しかし、そうすると数多くの若い命が失われる。

 

 

 ならば、多くの、未来ある命を選び取るならば、スイッチを動かせばいい。しかし、そうなると老人の弱々しい命など風前の灯火よりもたやすくかき消える。

 

 

 多くを救うために少なきを犠牲にするか。弱きを助けるために強きを滅ぼすか。救うならば選ばないという選択肢はない。二者択一。必ず誰かの命は消える。

 

 

「世の中の全てを救うことはできない。いつだって、お前は選ばなければいけないのだ。誰を救い、誰を救わないか」

 

 

 それを聞いて、私は最近知ったばかりの『Fate/Zero』という作品を思い出していた。

 

 

 主人公の衛宮切嗣は百人の命を救うために十人の命を犠牲にした。たとえ、その中に自分の大切な人が含まれていたとしても。

 

 

 私だったならば。はたして、そんなことはできるだろうか。自分の信じる正義を、失ってしまうのではないだろうか。

 

 

 私は答えられなかった。彼はにやにやと壊れた笑みを浮かべる。まるで、悪そのものであるかのように。

 

 

正しきことを

 

「お前は正義の味方であろうとしてきた。悪を憎悪し、根絶することで世界を正しい道へ誘おうと」

 

 

 そうだ。私は悲しむ人を減らしたかった。彼女のように、どうしようもない悪に蹂躙され、涙を流す人がいないような世の中に。警察官になれば、彼らを救えると考えていた。

 

 

「だが、そうじゃなかった」

 

 

 彼の言葉に、私は頷く。『悪』は、私が考えていたよりも深く、世界に根を張っていた。どこにでも存在し、それらすべてを根絶することは不可能だった。

 

 

 世界はすでに、正しくないことが正常な形として認められていた。悪あってこその世界とされていたのだ。正義の体現者であるはずの警察でさえ、『悪』はいたのだから。

 

 

 私にはもう、正義がわからなくなってしまった。正しいこととは、いったい何だ。本当は、私だけが間違えていたのではないか。

 

 

「そうだとも。お前は間違っているさ。正義も悪もない。誰もが正義であり、悪でもある」

 

 

 スイッチを動かして五人の若者を救った英雄は、ひとりの老人を亡き者にした極悪人だ。正義と悪はいつだって見方次第でどうにでもなる。

 

 

 正義の味方なんていやしないのだ。そこには、ただ、独りよがりの善を槌として自分にとっての悪を叩くひとりの人間がいるだけだ。

 

 

 彼は笑いながら囁く。その言葉は、今まで私を苛んできた称賛よりも甘く、私の心へと忍び寄った。

 

 

「お前は多くの人間を救った。だが、その代わりに犠牲となったお前の愛する人を、この世界は、はたして救ってくれたのか」

 

 

 奴らはお前の愛する人の犠牲を喜んだ。お前がみんなを救ってくれてよかったと。お前が彼女を見捨ててよかったと。

 

 

 そんな奴らは、お前の憎む『悪』じゃないのか。彼は笑う。心底楽しそうな口調で、私にささやく。

 

 

「なあ、『悪』は滅ぶべきだ。そうだろう」

 

 

 そうだ。私は顔を上げる。その時初めて、私に語りかけていた彼の顔をはっきりと見据えた。

 

 

 それはまぎれもなく、私自身の顔だった。その表情は、世界の全てを憎む、ただの正義の味方だった。

 

 

魔術師と英霊たちの聖杯を巡る戦い

 

 切嗣とその妻、アイリスフィールは当主に託された長櫃を開け、その中身に目を奪われていた。

 

 

 剣の鞘である。黄金の地金に、目の醒めるような青の琺瑯で装飾を施した豪勢な拵えは貴人の威を示す宝具を思わせる。

 

 

 この輝く鞘こそは、遠く中世より語り継がれる伝説の騎士王、アーサー・ペンドラゴンの遺品に他ならない。

 

 

 そして、とうとう実行の日。アインツベルン城で、衛宮切嗣は礼拝堂の床に描き終えた魔法陣の出来を確認していた。

 

 

 出来栄えに満足がいったのか、切嗣は頷いて立ち上がると、祭壇に縁の聖遺物――伝説の聖剣の鞘を設置した。

 

 

 呪文を唱えていくと、基地嗣の視界が暗くなる。大気より取り込んだマナに蹂躙される彼の肉体は、今、幽体と物質を繋げるための回路に成り果てている。

 

 

 かくして、嘆願は彼らのもとにまで届いた。かつて人の身にありながら人の域を超えた者たち、人々の夢で編まれた英霊たちが、そのとき、一斉に地上へと降臨した。今凛烈なる誰何の声が響き渡る。

 

 

「問おう。汝が我を招きしマスターか」

 

 

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