僕は最低な人間だった。いろんな人を傷つけた。だから、誠実であろうと思った。僕が誠実でさえあれば、誰も傷つかないと、そう思っていたのだ。
その考えに疑問を抱いたのは、野村美月先生の『”文学少女”と繋がれた愚者』を読んでからだった。
僕にその本を貸してくれたのは、僕のことを好きだと言ってくれた女の子だ。
『文学少女』シリーズは、文学を愛し、文学を食す文学少女、天野遠子と彼女に振り回される井上心葉を中心に描く作品だ。
日常はコミカルで騒がしいコメディタッチを見せているが、真相が憂鬱でどこまでも暗い展開になっている。透明感のあるイラストも相まってギャップが激しい作品だった。
『繋がれた愚者』はその三冊目だ。一巻の頃から少しずつ登場していた心葉のクラスメイトの芥川を中心にした作品である。
芥川は女生徒にも人気の高い精悍な顔立ちの好青年で、人との関わりを避けている心葉にも付き合いやすい距離を保っているキャラクターだ。
だが、三巻では、本のページが切り裂かれていた事件をきっかけに、彼の内面に抱える闇が明らかになっていく。
心葉が出会ったのは、芥川の恋人を名乗る女性。そして、彼の母校の教師から明かされた芥川の過去。
彼はただ、誠実であろうとしただけだった。修行僧のように誠実であることを自らに課し、その信条に則していただけだ。
だが、結果として二人の少女を傷つけてしまった。そのことが彼の根幹を揺るがし、未来を歩むことに恐れを感じ始めたのだ。
彼は僕とは違う。不誠実であったがゆえに人を傷つけてしまった僕とは、まるで対照的だった。
この本が今でも僕の手元にあるのは、もう、僕が彼女に会えなくなったからだった。
彼女は遠くへ行ってしまった。もう、この本を返すことすらできない。彼女の本は、まるで呪いのように僕を過去に縛りつけたのだ。
誰もが当たり前のように未来へと向かって進んでいる。過去に縛られている人を叱咤し、現在に固執する人たちを蔑みながら。
けれど、僕は知っているのだ。未来へ進むことが、どれほど難しいことなのかを。誰もが当然のようにしていることが、どれほどの苦痛を伴うのかを。
僕には不思議でならなかった。なぜ彼らは平然とした顔で、未来へと進むことができるのだろうか。
もしも、僕が選んだこの未来の先に、誰もが傷ついたとしたら。誰かを、あるいは自分を、裏切ることになったとしたら。
僕は未来が怖くてたまらなかった。何が待ち受けているのかわからない、未来のことが。だから、僕は歩くのをやめたのだ。
僕の見る景色はいつだってセピア色だ。まるで写真を眺めるように、僕は過去だけを繰り返している。
未来へと進む
「大好き」
そう言って男の子に抱き着く女の子。僕はその光景を傍らから影のように眺めていた。男の子の表情が困りながらも、まんざらとしていないことに気付いている。
僕が視線を彼らから外すと、教室の扉の外で、もうひとり、同い年くらいの女の子が愕然とした表情で抱き合う彼と彼女を見つめているのが見えた。
ああ、そうか。この時に、見られていたのか。僕はようやく合点がいった。彼女が僕の裏切りを知ったのは、この時だったのだろう。画面が渦巻いて、切り替わっていく。
少し大きくなった二人の女の子たちが言い争いをしている。それを抱き着かれていた男の子が茫然と見ていた。
やがて、男の子は踵を返し、女の子たちの争いから逃げるように駆けていく。言い争う少女たちの言葉が、いつまでも彼の背中を追いかけていた。画面が再び切り替わる。
暗い部屋の中で少年が頭を抱えていた。けたたましく鳴り響くインターホンの音を聞かないようにしているのか、耳をふさいで縮こまっている。
インターホンの音の中に、かすかに、少年に好きだと訴える少女の声も混ざっていた。けれど、少年はもう、何の声にも答えようとはしない。
この後、彼女は転校していくことになった。そのことをぼくは知っている。そして、もうひとりの女の子は、不登校になったまま、会うことはなかった。
僕が誠実でなかったがゆえに、彼女たちは人生を歪まされることになったのだ。誰もが幸せを望んでいたはずなのに、誰も幸せにはなれなかった。
「誰もが愚か者なの。愚か者じゃないと、物語は始まらないのよ」
失敗もする。誰かを傷つけるし、自分も傷つく。けれど、それは終わりではなく始まりなのだと。
誰かの言葉だったのだろうか、いや、聞いたのではない。僕はその言葉を読んだ。暗闇の中で、あの言葉だけが輝くようだった。
そろそろ、先に進むべきかもしれない。過去の愚行にいつまでも浸り続けるのは、物語に対して誠実ではないだろう。
前のページに戻ってばかりいては、物語は終わらないのだ。僕は描かなければならない。僕のこの物語の結末を。セピア色がひび割れて砕けた。
誠実な青年の抱えた闇
最近、遠子先輩の中で日本の古い恋愛小説がブームらしく、『野菊の墓』を読んで熱心に蘊蓄を垂れていた。
遠子先輩は、物語を食べる妖怪だ。本のページや、紙に書かれた文字を、指で千切って口に入れては、はむはむ噛みしめ、こくりと飲み込む。
聖条学園の文芸部には、三年生の遠子先輩と、二年生の僕の、二人きりしかいない。
ふと、ページをめくっていた遠子先輩が、いきなり叫んだ。僕が驚いて顔を上げると、遠子先輩は両手で本を持ち、目を見開き、わなわな震えている。
聞けば、本のもっとも良いシーンが、何者かに切り取られていたらしい。その本は図書室から借りてきた本だった。
「読書家の敵! 文芸部の敵だわ! これはなんとしても犯人を突き止めて、とっちめてやらなきゃ。早速調査よ、心葉くん!」
本を閉じ、パイプ椅子から勢いよく立ち上がった遠子先輩が、勇ましく言い放った。
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