文学少女が太宰治の名作を読み解く『文学少女と死にたがりの道化』野村美月


 恥の多い生涯を送ってきました。なんて有名作品の冒頭を踏襲して言ったところで、私の文章が太宰になるわけでもあるまいに。

 

 

 私が自分と他人との間にある認識のずれに気がついたのは、小学生の頃のことでした。

 

 

 私の父が事故に遭ったのです。何事もない日常が一瞬にして崩壊した、あまりにも突然の出来事でした。

 

 

 誰もが泣いていました。母も、祖父母も、伯父も。その中で、私だけが泣いていませんでした。

 

 

 まだ理解できていないんだろう、と彼らは私を見て憐れむように目を細めました。母は私を痛いくらい抱きしめました。

 

 

 けれど、その時、私が泣かなかったのは、これっぽっちも哀しくなんてなかったからです。

 

 

 父のことは嫌いではありませんでした。その父とはもう二度と会えないのだということも理解していました。そのうえで、私は悲しくなかったのです。

 

 

 事情を知った友達や、先生にも「哀しいね」「辛いね」と言われました。私はそのたびに、何も感じていない自分が恥ずかしくてたまりませんでした。

 

 

 私はその時、自分と他人との間に堂々と仰臥している、千尋の谷底よりも深い認識の齟齬の存在を明確に認めたのです。

 

 

 他の人が悲しいと思うことが悲しくないのです。嬉しいと思うことが嬉しくないのです。楽しいと思うことが楽しくないのです。

 

 

 私は人間として欠陥なのだと。私は人間失格なのだと。私はその時に知りました。思い知りました。

 

 

 このことを誰かに知られれば、その人は私のことを指を差して笑うに違いないのです。そして、私が欠陥であることを白日の下に晒し上げるでしょう。それは想像だに恐ろしいことでした。

 

 

 だから、私は自分の正体を隠し、他の人に合わせるようにしたのです。それこそが、私の演じる道化でした。

 

 

 私は太宰が嫌いです。『人間失格』を呼んでいる時、私は身の毛がよだつような恐ろしい思いでした。

 

 

 他人の感情がわからず、必死に道化を演じるも失敗し、やがて破滅していく青年の姿は、まさしく私そのものだったからです。

 

 

 廃人のようになってしまった彼の姿が、これこそお前の未来だと指を差されているようで、私は心臓が冷たく凍るようでした。

 

 

 手記から始まるこの救いのない物語は最後の一文字まで救い上げることもなく、人間世界の深奥へと落ちていきます。

 

 

 まるで私はその本から伸びた無数の黒い手が私の魂を掴み、自分とともに道連れにされているように思いました。

 

 

 もがいても、もがいても、誰も助けてくれるわけもなく。私はただ、『人間失格』の暗い心象風景の水底で、絶望の中で身を横たえていたのです。

 

 

本を愛する

 

 私は本が好きではありません。太宰ほど嫌いではないけれど、読書が楽しいという友人の気持ちがどうしても理解できないのです。

 

 

 登場人物に共感することもできず、どんなストーリーであっても、おもしろいとも楽しいとも思えず、論文や数式を読んでいるのと何ら変わりませんでした。

 

 

 私にはただ、羅列している文字を目で眺めているのと同じなのです。そんな有様で、楽しめるはずもないのでした。

 

 

 ですが、私がおもしろいと笑って伝えると、友人は喜んでまた別の本をどこからか持ってきて、私に貸してくれるのです。私にはそれが苦痛なのでした。

 

 

 本を食べちゃうほど愛しているという文学少女の気持ちは、だから私には理解しがたいものでした。

 

 

 『”文学少女”と死にたがりの道化』を読んだ時、私はそんなことを思ったものです。その作品は、太宰の『人間失格』をテーマにしているようでした。

 

 

 元天才美少女作家と呼ばれた少年、井上心葉と本を愛するあまりに食べてしまう文学少女、天野遠子。

 

 

 文芸部に所属している二人は、竹田千愛という少女と出会い、そして彼女を通して孤独なお化けと出会うのです。

 

 

 他人の感情が理解できない、哀しいお化け。それはまるで『人間失格』の大庭葉蔵のようでもあり、私のようでもありました。

 

 

 読んでいて苦しくなったのは、これで『人間失格』に次いで二冊目です。またあの暗い未来を見つめながら、私は読み進めました。

 

 

 けれど、私は『文学少女』に教えられたのです。太宰治先生の作品は暗くて憂鬱な『人間失格』だけではないのだと。

 

 

 太宰治先生は愛する女性とともに自ら最期を選びました。複数回の彼の騒動が、後の世に伝わる彼の後ろ向きな印象を強めたのです。

 

 

 ですが、実際の彼はユーモアに溢れた皮肉屋で、多くの人を惹きつけました。それは、彼の作品を読んでみても伝わるでしょう。

 

 

 今ではもう、以前ほど私は『人間失格』が嫌いではなくなりました。今でも読みたくはありませんが、それでも。

 

 

 どれだけ生きているのが恥ずかしい人間失格であっても、生きていていいのだと。文学少女がそう教えてくれたから。

 

 

物語を食べちゃうくらい愛している文学少女

 

 十四歳のぼくが体験した出来事は、まさに驚天動地。怒涛に波濤に激動のてんやわんやで、たった一年の間に、ぼくの人生は一旦終了してしまったような気さえするのだ。

 

 

 なにしろあの一年の間、ぼくは謎の天才美少女作家として日本中の注目を集めていたのだから。

 

 

 はじまりは中学三年生の春だった。ぼくは十四歳で、ごくごく平凡な中学生をやっていて、友達もいて、好きな女の子もいて、それなりにおもしろおかしく過ごしていた。

 

 

 それが、生まれて初めて書いた小説を、ほんの気の迷いで新人賞に応募したら、史上最年少で大賞に輝いてしまった。

 

 

 文章が女の子の一人称で、ペンネームも井上ミウなんて女の子の名前を使っていたものだから、謎の美少女覆面作家として大々的に宣伝されてしまったのだった。

 

 

 釈然としないままに受賞作が出版され、それがたちまちベストセラーになってしまった。本は売れに売れて百万部を突破。社会現象になった。

 

 

 スミマセン、もう勘弁してください、出来心だったんです、あんなの文学だなんてご立派なものではないんです。

 

 

 日本中のありとあらゆる場所を平身低頭して回りたい心境で、挙句にあんなことがあって、過呼吸を起こして学校で倒れ、登校拒否なんかもして、家族にも心配をかけた。

 

 

 本当に恥さらしな一年だった。

 

 

 かくして、井上ミウはたった一冊の本を残して消滅し、ぼくは高校生になり、そこで本物の”文学少女”を――天野遠子先輩を知ったのだ。

 

 

 なぜ、ぼくが、再び書き始めたのか。それはあの日、シンと輝く真っ白な木蓮の下で、遠子先輩に出会ってしまったせいだった。

 

 

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