昔話に語られた死の秘宝とは?『ハリー・ポッターと死の秘宝』J.K.ローリング


「久し振りね」

 

 

 母は以前と何も変わらない、穏やかな口調で私に微笑みかけた。私は思わず唖然として母を見つめた。

 

 

 白いワンピースにストールを巻いたその姿は、間違いなく母のものだ。その容姿は私が知るよりも若々しく見えた。

 

 

「ここは?」

 

 

 私は辺りを見回してみる。そこは見慣れた私の部屋ではなかった。何もかもが真っ白で、何もない広大な空間の中に私と母だけがいた。

 

 

 母は私の問いには答えず、少し歩きましょうか、と言った。そういってゆっくりと歩いていく母の隣りを、私もついて歩く。

 

 

「でも、母さん、歩いても、ここには何もないじゃあないか」

 

 

「あなたがここには何もないと思っているから、何もないのよ。あなたがあると思えば、ここはなんでもあるし、どこにだってなれる」

 

 

 母の言葉はよくわからなかった。けれど、彼女はそのまま私の手を引いた。まるで子どもの頃の私に、してくれたように。

 

 

「ここがどこか、あなたは知っているはずよ。ただ、気がつかないようにしているだけ」

 

 

 言われて、私は白い世界を眺めた。その光景を私は見たことがないはずなのだけれど、どうしてだか、他のどの場所、私が何年も暮らしてきた家よりも知っているような気がした。

 

 

「私は、どうしてここに?」

 

 

「久し振りに話したかったから待っていただけよ」

 

 

 だいじょうぶ、そこまでの時間はかからないわ。彼女は私を安堵させるように頭を撫でた。私が顔を傾けてその手を避けると、彼女は不満そうに私を睨んだ。

 

 

「ちょっと。なんで撫でさせてくれないのよ」

 

 

 それは私がもう、そんな年齢ではないからだ。この年にもなって母から頭を撫でられるのは気恥ずかしかった。

 

 

「私から見れば、あなたは今もかわいい我が子よ」

 

 

「勘弁してくれ」

 

 

 私が降参の意を込めて諸手を上げると、母は渋々と言った様子で納得したようだった。

 

 

「いいわ。でも、褒めるだけは褒めさせて欲しいわね。私はあなたのことが誇らしくてたまらないの」

 

 

 私は動揺する。母は、私が何をしたのか知っているようだった。すべてを見通すような微笑みは、どこか超然として見えた。

 

 

 そして同時に、私はここがどこなのかということを、じわじわと認識し始めていた。そして、それはただひとつの事実を私に知らしめたのだ。

 

 

「母さん」

 

 

「なにかしら」

 

 

「母さんは、あの時、たしかに亡くなったんだよな」

 

 

 母は微笑みを崩さないまま頷いた。ああ、やっぱり。私はそれを知っていた。なぜなら、母の最期を看取ったのは私なのだから。

 

 

 そして、亡くなったはずの母がここでこうして話しているということは、あるいは私自身も。

 

 

「そして、私も。そうだろう?」

 

 

 母はもう一度、頷いた。ああ、そうだろうな。目を反らしていた事実に、私はようやく向き合ったのだ。

 

 

死を友として

 

 その光景を見た時、私の身体は思わず動いていた。ブレーキ音を響かせながら少女に迫るトラック。少女は怯えて動けないようだった。

 

 

 私は彼女を突き飛ばした。少女が小さかったことも幸いし、少女の身体は道路の端の母親のもとにまで飛んでいった。それを見て安堵したのが、私の最後の記憶である。

 

 

「あなたは勇敢だったわ」

 

 

 自分の命も顧みず、女の子の命を助けたのね。母はそう誇らしげに私に微笑んだ。

 

 

 私は答えず、周りを見渡す。やっぱり、そこは白しかなく、何もない空間だった。

 

 

「死後の世界ってのは、随分と、予想とは違うみたいだ」

 

 

 天国も地獄もない。それに、その瞬間も苦しみなんてなく、一瞬の痛みがあっただけだった。

 

 

「生きている人たちはみんな、死を怖がるわ。でも、意外となんともないでしょ」

 

 

 そういうものなのよ。知らないから怖いのであって、知っていれば何も怖がることなんてないわ。

 

 

「その時がはっきりと見えた人にとっては、『死』は親しい友だちのようなものよ。彼は憎むようなものでも嫌うようなものでもなくて、寄り添うべきものなの」

 

 

 それを知らない人にとっては、恐ろしいのでしょうけれど。母は柔らかく微笑む。

 

 

「でも、あなたは見も知らない女の子のために、その恐怖に飛び込む決意をしたの」

 

 

 どれだけ優れた人でもなかなかできないことを、あなたはやってのけたのよ。しかし、私は釈然としなかった。

 

 

「たしかに、私は女の子を救ったかもしれない。だけど」

 

 

 私がいなくなってしまったことで、もっとも私が大切にしなければならなかった妻と子どもには、どう顔向けすればいいのだろう。

 

 

 子どもは父親を失ったのだ。これから、妻も子どもも苦労するに違いない。自分の軽率な行動のせいだと思うと、どうにもやりきれなかった。母も哀しげに眦を下げる。

 

 

「そうね。あなたの家族はこれから苦労するかもしれない。愛する人との別れは辛いでしょうね」

 

 

 『死』が怖いのは、それをよく知らないっていうだけじゃあなくて、愛する人たちと二度と会えなくなるということでもあるの。

 

 

 その方が、むしろ『死』そのものよりも恐ろしいのかもしれないわね。母の言葉に、私は頷いた。

 

 

「でも、だいじょうぶよ。本当に愛している人同士なら、生きている人たちもいつかは必ず乗り越えられるわ。あなたとお父さんにも、できたように」

 

 

 さあ、私と一緒に見守りましょう。母は、白い光景の奥へと消えていく。その先に行けば、私はもう二度と戻ってこれないのだろう。だけど、私は進むのだ。

 

 

ハリーは最後の戦いに旅立つ

 

 玄関のドアがバタンと閉まる音が階段を上がってきたと思ったら、呼び声が聞こえた。十六年間こういう呼び方をされてきたのだから、おじさんが誰を読んでいるかはわかる。

 

 

 ハリーはゆっくりと立ち上がり、部屋のドアに向かった。ハリーの姿が階段の上に現われると、バーノン・ダーズリーが大声で下りてこいと言った。

 

 

「一言も信じないと決めた。わしらはここに残る。どこにも行かん」

 

 

 ハリーはおじさんを見上げ、怒るべきか笑うべきか複雑な気持ちになった。この四週間というもの、バーノン・ダーズリーは二十四時間ごとに気が変わっていた。

 

 

 ハリーが十七歳になると、守りの呪文の効力が切れる。そうなれば、ヴォルデモートとその一味がダーズリー一家を襲うのは明白だった。

 

 

 闇の魔法使いに対抗する不死鳥の騎士団は、彼らを安全な場所に保護するつもりだったのだ。

 

 

 おじ、おば、そしていとことの永遠の別れ。あまり悲しまなくて済む別れだった。にもかかわらず、なんとなく気づまりな雰囲気が流れていた。

 

 

 玄関の呼び鈴が鳴った。ハリーが玄関を開けた途端、小柄な男が深々とハリーにお辞儀した。一家を安全に保護してくれるディーダラスとヘスチアだ。

 

 

「さあ、小僧、ではこれでおさらばだ」

 

 

 ダーズリー氏は右腕を挙げてハリーと握手する素振りを見せたが、間際になってとても耐えられないと思ったらしく、腕をぶらぶら振り出した。

 

 

 ペチュニアおばさんはハリーと目を合わすのを避けていた。ダドリーは口を半開きにしてその場に突っ立っていた。

 

 

 ダーズリー氏はさっさと部屋から出ていった。玄関のドアが開く音がした。しかしダドリーは動かない。ダドリーは大きな手でハリーを指した。

 

 

「あいつはどうして一緒に来ないの? あいつはどこに行くの?」

 

 

 ペチュニアおばさんとバーノンおじさんは顔を見合わせた。ダドリーにぎょっとさせられたに違いない。

 

 

「お前は俺の命を救った」

 

 

 ダドリーは表現しきれない思いと取り組んでいるように見えたが、やがて呟いた。ハリーは不思議なものを見るように、いとこを見た。

 

 

ダドリーはしがみついている母親からそっと離れ、ハリーの方に歩いてきた。ダドリーは、やおら大きなピンクの手を差し出した。ハリーはダドリーの手を取って握手した。

 

 

「またな、ハリー」

 

 

「たぶんね。元気でな、ビッグD」

 

 

 ダドリーはニヤッとしかけ、それからドスドスと部屋を出ていった。ダドリーの重い足音が聞こえ、やがて車のドアがバタンと閉まる音がした。

 

 

 ペチュニアおばさんは「じゃ――さよなら」と言って、ハリーの顔も見ずにどんどん戸口まで歩いていった。

 

 

 ペチュニアが立ち止まって振り返った。ハリーは、おばさんが自分に何か言いたいのではないかという、不思議な気持ちに襲われた。

 

 

 しかし、やがてくいっと頭を上げ、おばさんは夫と息子を追って、せかせかと部屋を出ていった。

 

 

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