二人の母親と親子の絆『朝が来る』辻村深月


 家族って何だろう。楽しそうな食卓で、私はずっとそのことを考えていた。彼らが笑うその食卓に、私の居場所はなかった。

 

 

 少し前まで、私は別の場所にいた。郊外にひっそりと建っているような、古びたアパートだ。

 

 

 私とお母さんは今まで何度も住居を変えてきた。仕事の都合だと教えられていたけれど、その理由は、今ならわかる。

 

 

 お母さんは逃げていたのだ。お母さんを追っている、いろんな人たちから。とうとう捕まってしまったのは、つい先月のことだ。

 

 

 お母さんは、本当のお母さんじゃない。最初にそう聞かされた時、どういう意味かわからなかった。ただ、頭の中が真っ白になったかのようだった。

 

 

 なんでも、私は生まれてすぐの頃、誘拐されたのだという。お母さんに。私がお母さんだと思っていた人は、私とは血が繋がっていなかったのだ。

 

 

 お母さんが捕まって、私は、私の「本当の家族」のもとへと引き取られた。それが今の「家族」だ。

 

 

 初めて会った時、父も母も、涙を流して私を抱きしめた。兄も、頭を撫でてくれた。彼らは私と似ているのだろうか。自分ではよくわからなかった。

 

 

「よかったね。本当の家族のもとに戻ってこれて」

 

 

 涙ぐんで私に言った婦警さんに、私は言葉を返すこともできなかった。彼女はにっこりと笑って、その場を去っていった。

 

 

 家族って何だろう。父と母と兄が食卓を囲んで笑っている。普通の、幸せそうな家庭だ。私はその光景を見て、そう思わざるを得なかった。

 

 

 彼らが私に気を遣ってくれているのがわかる。まるで客人のように。良い人たちなのだろう。きっと、お母さんよりも、ずっと。

 

 

 お母さんのあの後のことは、何も知らない。みんなが私にその情報を触れないようにしていた。私からお母さんの存在を欠片すら残さず消そうとしていた。

 

 

 お母さんが警察に捕まった時、私は何が起こっているかわからなかった。ただ泣いて、叫んで、また泣いた。

 

 

 血のつながっていない。私はそう聞かされて愕然とした。たったそれだけの理由で、私はお母さんから引き離されて、この人たちの中に放り込まれたのだ。

 

 

 血のつながりなんて、そんなに大切なものなのか。たったそれだけで、誰もが私のお母さんを「偽物」にした。

 

 

 『朝が来る』という作品を思い出す。辻村深月先生の作品だ。お母さんも私も本好きで、先生の作品は特に好きだった。

 

 

 幸せな家族の佐都子のもとにかかってきた、一通の電話。彼女は片倉光と名乗った。

 

 

 彼女は「子どもを返してください」と言ってきた。それが無理なら、お金を用意しろ、と。

 

 

 佐都子の息子、朝斗は養子だ。子どもができないことに悩んでいた二人は、養子をとることを決意し、朝斗を迎えた。

 

 

 その朝斗を生んだのが、片倉ひかりという女性。子どもを産んだ当時はまだ中学生だった。

 

 

 佐都子は夫とともに、彼女と話し合うことを決意する。そんなストーリーだった。

 

 

 佐都子は周りにも、そして朝斗本人にも、養子であることを堂々と伝えている。そして、朝斗を生んだ片倉ひかりのことも、母として尊敬していた。

 

 

 佐都子と夫、そして朝斗は紛れもなく「家族」だった。血のつながりなんてなくても、そのことを負い目に思わず堂々としていた。

 

 

 その本を読んで、お母さんが泣いていたのを思い出す。感動的な話だったけれど、お母さんが泣くなんて珍しいと思いながらきょとんと見ていた。

 

 

 でも、今ならわかる。お母さんは、佐都子と朝斗の中に本当の「家族」の姿を見たのだ。血のつながりなんてなくても心がつながっている、本当の家族に。

 

 

 お母さんは不当な手段で子どもを奪った。私とお母さんは血がつながっていない。私は血のつながった家族との関係を今まで奪われ続けてきた。

 

 

 それでも、私とお母さんは「家族」だった。お母さんは娘として私を育ててくれた。血がつながっていないからといっても、母として苦労しながら私を必死に育ててくれたのだ。

 

 

 うん、やっぱり、私の本当の家族はお母さんだ。血のつながりじゃない。そんなものよりも、もっと大切なものが私たちの間にはあるのだから。

 

 

二人の母親

 

 電話が鳴った。またかもしれないと、佐都子は身構える。「はい、栗原です」無駄かもしれない、と知りつつ、名乗った。

 

 

 すぐに返ってきてもいい声が、聞こえない。受話器の向こうでは、本当に人がいるのかいないのかもわからない、塗りこめたような沈黙が蹲っている。

 

 

 イタズラとも思える無言電話がかかり始めたのは、ここ一か月のことだった。三日に一度か、一週間に一度。

 

 

 耳を澄まし、「もしもし?」という数秒の間に、電話は毎度、ふつ、と切れてしまう。

 

 

 五歳になる息子の朝斗が一度、この電話を取った。慌ててその手から電話を替わると、いつもより長い沈黙が受話器の向こうに広がっていた。

 

 

 息を呑みこむような気配を感じたのは、あれは、気のせいではないと思う。何も言わず、その時も電話はすぐ切れた。

 

 

 その時も、電話が鳴った。「はい、栗原です」沈黙が返ってくるに違いない、と予想する。けれど違った。

 

 

「――もし、もし」

 

 

 幽霊のような声だ、と思った。途切れるように頼りない印象の若い女の声は、およそ、そこに生気というものが感じられない。

 

 

 声に心当たりはなかった。訝しく思いながら「どちらさまですか」と聞いてみる。聞きながら、ふと、この間からの無言電話の相手はこの人だ、と直感する。

 

 

「私、カタクラです。あの、子どもを、返してほしいんです」

 

 

「え?」

 

 

 胸が、どくん、と大きく打った。そして、告げられた名前を反芻する。カタクラ。漢字が思い浮かぶと同時に、目を、大きく見開く。片倉。

 

 

「私の産んだ子供です。――そちらに、養子でもらわれていった」

 

 

 心臓の音が、強く、大きくなっていく。声を失う佐都子とは反対に、片倉と名乗った女の出す声が、徐々に、落ち着き払っていく。

 

 

「いますよね、アサト、くん」

 

 

「片倉――ひかり、さんですか」

 

 

 その名前を忘れたことはない。電話の向こうでは、戸惑うような沈黙が一泊あった。「そうです」と相手が言う。

 

 

「それは、朝斗を私たちから引き取って、一緒に暮らしたい、ということですか」

 

 

 突然のことに、受話器を持ったまま動けない。すると、彼女が思いがけないことを続けた。

 

 

「それがもし、嫌なら、お金を、用意してください。そうすれば、私、諦めます。私のこと、バレたらいろいろ、困るんじゃないですか。用意してもらえないなら、私、話します。あなたの周りに」

 

 

 あまりのことに声が出てこなかった。脅迫されているのだ、とようやく気付いた。瞬きした自分の瞼が、痙攣するように震えて動く。

 

 

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