『未だ誰も見たことがないようなミステリを考えよ』
ホワイトボードに書かれている文字を見て、私はきょとんとした。先に教室に来ていた彼女が、おっす、と手を挙げてくる。
「なんです、あれ」
「知らん。どうせ、また部長でしょ」
彼女は苦笑して肩を竦める。だろうなあ、と私は彼女の隣りに腰かけて、カバンを下ろした。
我らがミステリ研究会の部長ははっきり言って変人だ。変人揃いと噂高いミステリ研の中でも頭ひとつ飛び抜けている。
「誰も見たことがないようなミステリを考えよ」
書かれた文字を口に出してみる。つまり、誰も使ったことがない斬新なトリックを考えろ、ということだろうか。
「トリックとは限らないんじゃね? ようするに、斬新なミステリだったらいいんでしょ」
「昔のミステリドラマで、飲んだチーズフォンデュを喉奥で冷やして固めて呼吸不全を起こさせる、なんてトリックがありましたね」
「そうはならんやろ」
「当時はそうなると思われてたんでしょうね」
それにしても、これは簡単なようで難しいのかもしれない。「誰も見たことがない」というところが特に。
私も彼女もミステリが好きだったから、この研究会に入部した。私が読んでいるミステリの数は誰よりも多いだろうと互いに思っているくらいだった。
そんな私たちだからこそ、ミステリがどれだけの多様性を持っていて、どれだけの人によって書かれているのか知っているのだ。
時代が進んでいる今、前人未到のものを探すのは難しい。いわんやミステリを、だ。
「こんなのはどうだろう」
彼女が閃いた、とばかりにぽんと手を打つ。
「亡くなった被害者が蘇って犯人を探す。亡くなったと思っていた、じゃなくて本当に蘇るの。ファンタジーとミステリの融合、みたいな」
「それはもう本格ミステリとは言えないじゃないですか」
ライトなミステリではなく本格ミステリを愛することが我がミステリ研究会の基準だ。けれど、その基準は部長が勝手に設けたもので、彼女は軽いミステリも好んで読んでいる。
「こんなのはどうでしょう。犯人が人間ではなく現象。人が亡くなっていく現象の謎を解明するミステリ」
「どこかで聞いたことあるね、それ」
「ですよね」
そもそも、今までにないミステリを考えるには、私たちの豊富なミステリ知識が邪魔をしていた。
いっそのこと、知ったかぶりが激しい部長の方がそんなミステリを思いつくのではないだろうか。
ミステリのカテゴリはこれでもかというほど踏み荒らされている。まだ踏まれていないところを探すのは難しい。
部長が来たら、部長に聞いてみよう。彼女と目を合わせると、彼女も同じことを考えていることがわかった。
開拓者となるか、足跡を辿るか
「お前ら、なんで俺を探さないんだ」
憮然とした表情で唇を尖らせる部長に、私と彼女は呆れたような視線を向けた。探す意味がなかったからだよ、とは言わない。思うだけだ。
彼が掃除用具入れから飛び出してきた時はさすがに驚いた。どうやら、問いに対してどう答えるか、箒と一緒に私たちを観察していたらしい。やはり部長以上の変人はいない。
「で、俺が出した問題の解答は出たのか」
いやぁ、さっぱりっすよ、あはは。軽い口調で答える彼女に、私は隣でうんうんと同意を示す。部長は落胆の表情を見せた。
「お前らなぁ、それでもミステリ研の一員かよ」
「じゃあ部長は何か考えたんですか」
私が聞くと、彼はあからさまに視線を反らした。これは考えていない顔だな。私がじとっと睨むと、彼は居心地悪げに足を揺らし始める。
「そもそも、なんでこんな問題を出したんですか」
「あ、そうなんだよ。それがさ」
私が聞くと、部長は目を輝かせて話題に乗る。実にわかりやすい。彼女を見ると、もっといじめてやろうぜ、と視線で文句を言っていた。
「『屍人荘の殺人』って作品を読んだんだ」
『屍人荘の殺人』。最近、話題になったばかりの作品だ。先日、特にミステリ好きじゃない友人からも薦められたことがある。
しかし、生憎と、私は読んでいない。おそらく彼女もだ。ショッピングに行って服をしこたま買ってしまったのは記憶に新しい。
「お前ら、まだ読んでいないのか」
「しゃあないでしょ。金欠なんだよ、金欠」
「どんな作品なんですか」
『屍人荘の殺人』はクローズドサークルのミステリ作品だ。クローズドサークルというのは、つまり数人の登場人物が逃げられない状況に置かれて、そこで事件が起きるというもの。
たとえば、雪山のペンションだとか、山奥の別荘だとかがよく見るだろうか。雪崩で帰られなくなる。崩落で道が塞がれる。そうやってクローズドサークルは出来上がる。
ミステリ好きの葉村は同じくミステリ好きの明智とともにミステリ愛好会に所属している。
明智は数人の男女でペンションに行くらしい映画研究会の合宿に参加させてもらおうと企んでみた。
そんな時、剣崎比留子という美女から取引が持ち込まれる。彼女とともに合宿に参加してくれないかということだった。
実は、その合宿には不穏な噂がある。その噂に好奇心を惹かれた明智は、その取引に応じることにした。
そうして彼らは合宿に参加することになる。待ち受ける恐ろしい未来を知らずに。
「どんな未来が待っているんですか」
「言えるか、ネタバレになるだろ」
部長がすげなく返す。質問した彼女は肩を竦めた。むしろ、答えていたら部長は袋叩きだろう。ネタバレは最大の罪だ。
「宣伝の帯には、今までにない新しい形のクローズドサークル、と書かれているのをよく見かけますね」
「そう、そうなんだ。俺も今までいくつもミステリを読んできたが、あんな作品は初めてだった」
私と彼女は顔を見合わせる。部長にまでそんなに言われると、興味が湧いてくる。自分の中の欲望がうずうずと顔を上げるのを感じた。
「すまんが、何も言えないんだ。何を言ってもネタバレになりそうだからな。気になるなら、自分で確かめてくれ」
「……そうですね。帰りに買っていきます」
お金は生活費を抑えればなんとかなるだろう。それよりも、今はとにかく読んでみたくてたまらなかった。
「じゃあ、私は今日はこれで」
「え、早くね?」
「本屋が閉まっちゃいますから」
私はカバンを抱えて立ち上がる。部長が感想を聞かせろよと手を振った。彼女には読み終わったら貸すからと言って納得させる。
なんだか外が騒がしい。扉を前に立ってまず思った。扉に手を掛けたところで、ガラス戸から外の光景が垣間見える。
残念ながら、どうやら、私は帰れないらしい。そして、本屋にも行けないだろう。私は扉の前に広がる現実を呆然と見つめた。
まったく新しい形のクローズドサークル
関西では名の知れた私大である神紅大学キャンパスの学生食堂の中でも、このセントラルユニオンと呼ばれる食堂はもっとも多くの学生に利用されている。
食事をとる学生たちの表情は明るい。夏休みの計画などに胸をときめかせているのだろう。羨ましく思う。俺の胸を占めるのは期待ではなく不安だ。
その原因の大部分は目の前に座る理学部三回生の先輩――明智恭介にあるのだが、自覚は全くなさそうだ。
明智さんと俺はライトミステリ好きなミステリ研究会に違和感を覚えて設立した学校非公認のミステリ愛好会に所属している。他の入会予定者は今のところいない。
そんな明智さんは、どうやら映画研究会の合宿に参加しようと試みているらしかった。ペンション、という単語がミステリ好きの琴線に触れたのだろう。
八月に突入し、暇を持て余した俺と明智さんは毎日のように大学近くの喫茶店に入り浸っていた。相変わらず明智さんは合宿への参加を頼み込んでは、断られているらしい。
「失礼。ミステリ愛好会の、明智さんと葉村さんですね」
店に入ってきた女性客から名前を呼ばれたことに驚き、彼女の顔を正面から見てさらに驚いた。
相当な美少女である。彼女は剣崎比留子と名乗った。文学部の二回生らしく、明智さんとも俺とも接点はなさそうだ。
「それで、我々になにかご用で?」
「取引しましょう」
単刀直入に、彼女はそう切り出した。
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