クルマの視点から見るとある一家の騒動『ガソリン生活』伊坂幸太郎


吾輩はクルマである。名前はアルトという。かつての持ち主のところから、何やら貧乏くさい一家のところに譲られ、名も知らない小さな島に身を寄せることとなった。

 

吾輩が止まっているのは、駐車場ですらない、海沿いの波止場である。島の誇る美しい景色に見惚れたのも最初の頃だけで、変わり映えもしなければ海もまた飽きてくる。むしろ、潮風で身体が白くなるのが煩わしく、都会の駐車場が懐かしくなる時もあった。

 

とはいえ、今の持ち主が嫌いかと問われれば、そんなことはない。運転がやや荒く、以前などは石壁に顔をぶつけたが、思い出したかのように気にかけてくれるのは悪いものではなかった。

 

月に一回、主人は吾輩に乗って船に乗り込み、島外に出かける。時には、主人の家族が同伴することもある。その外出の時には吾輩とて少しばかり気分が乗るのである。

 

最近は特に、主人の子どもが乗ることが多くなった。なんでも近場に図書館を発見したらしく、定期的に本を借りに行くのである。十何冊ばかりパンパンに詰め込んだバッグを肩にかけ、そして図書館から戻る時は再びそのバッグを後部座席に放り込んでいる。

 

ところが、それもここ数日は頓となくなってしまった。なんでも、図書館がしばらく閉じてしまっているらしい。主人の運転もご無沙汰で、隣に停まっているケイと話すしかすることがない。なんとも退屈な日々である。

 

「こんな本を知っている? 『ガソリン生活』というタイトルなんだけど。伊坂幸太郎という人の本なんだ」

 

ケイは新しくやってきた同僚である。主人の子どもが会社の上司に唆されて買ったらしいが、結局使わず、もっぱら主人の妻が仕事に行くときに活躍している。

 

ケイは本に詳しい。というのも、ケイをよく使う主人の子どもが本好きで、しばしば車内で読んでいるからである。置き忘れてそのままになっていることもしばしばあった。

 

ともあれ、『ガソリン生活』とは。一か月決まった食事を食べて生活するという企画があるが、その派生だろうか。しかし、人間はガソリンが飲めないはずだが。

 

「この前、その本について話していたのを聞いたんだよね。これがまた、おもしろいんだよ」

 

「ほう、どんな内容なのだ?」

 

ケイの説明してくれたところによると、こう。主人公はデミオ。緑の車体を持つクルマである。彼は望月家に所有されていた。

 

望月良夫は免許を取ったばかりで、可愛げのない小学生の弟、亨を同乗させて運転をしていた。そんな彼らが渋滞に巻き込まれて立ち往生している時、「助けて」と、彼らの車にひとりの女性が乗り込んできた。

 

彼女の名を、荒木翠という。スキャンダラスな噂がいくつもある女優であった。彼らは彼女の要望に応え、指示された場所に彼女を送り届ける。

 

しかし、翌日。兄弟は驚くべきニュースを聞いた。その女優、荒木翠が、彼らと出会った数時間後、恋人とともにトンネルで事故を起こして亡くなったというのである。

 

「けれど、その事故には、驚きのヒミツが隠されていたんだ」

 

「ほう、それは気になるな」

 

「気になるよねぇ……」

 

ん、この反応。まさか。

 

「おい、まさかそこまで話しておいて結末は知らない、なんてことはないだろうな」

 

「しょうがないじゃん。結末については話してなかったんだから。僕だって気になっているんだよ。でも、モヤモヤするからさ」

 

「だから吾輩を巻き込んだ、と、そういうことか」

 

「えへへ」

 

開き直ってへらへらと笑うケイに、思わずため息をつく。物語の先が気になって仕方がなかった。でも、我々にその願いがかなえられない。なにせ、クルマなのだから。

 

「でもさ、おもしろいと思わない?」

 

「なにがだ?」

 

「いや、だってさ、クルマ視点の小説なんだよ。その発想がおもしろいじゃん」

 

「たしかにな」

 

人間にクルマの声は聞こえない。彼らにとって我々は便利な道具である。その道具が、まるで生きているかのように描くというのは、愉快なアイディアだと感じた。

 

「そもそもさ、クルマが話すわけないじゃんねぇ」

 

「そうだな」

 

クルマは話さない。でも、もしも、会話をしていたのだとしたら。クルマが意思を持っているのだとしたら。その想像はきっと、さぞかし滑稽でオモシロイことに違いない。

 

 

その名はデミオ

 

燃料を燃やし、ピストンを上下させ、車輪を回転させて走行する、あの躍動感こそが生きている実感であるから、路上を走るのはもちろん痛快な時間だ。

 

強いて言えば、うんざりする時とは、渋滞の時間だろうか。走る喜びもなければ、ゆっくり考えに耽ることもできないからだ。もちろん、近くにいる他の自動車たちと会話をすることはできるが、車たちにも苛立ちや焦燥が滲むことが多く、あまり穏やかではいられない。

 

まさに今がその時だった。運転席には望月良夫がいて、ハンドルを握っていた。彼の緊張が、手に込められた力により僕にも伝わる。

 

「あ、ねえ、お兄ちゃん、この人、知ってる?」「知ってるってどれを」「この人」と、隣に座る十歳の弟、望月亨は手元で開いた雑誌を、良夫に見せる。

 

「これお母さんが置いていった週刊誌だと思うんだけど、シートの横に落ちてたんだよ。ほら、この記事。この人、『サンサン太陽君』の生みの親なんでしょ」

 

「ああ、丹羽氏」良夫のその言い方は、どこか相手を軽蔑するかのような口ぶりだった。「そいつは作者じゃないぞ。太陽君の生みの親はそいつのおじいちゃんだよ」

 

「じゃあ、この雑誌に載っているほうの丹羽さんはどういう」

 

「その作者の孫で、キャラクターの権利の管理者だろ」

 

太陽君のことは、僕も知っていた。そういった名称のキャラクターがいるのだ。何年か前、たまたま駐車場で隣り合わせになったワゴンRが、「サンサン太陽君」についての蘊蓄を語ってくれたことがある。

 

どうしてそれほどまでに、と驚くほどの熱の入れようであったが、よく見れば、彼の車内には、太陽君のキャラクターグッズがぎっしりと並んでいた。

 

 

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