生前最後の傑作『老人と海』ヘミングウェイ


 息を吸い込むと、潮の香りが身体に染み渡るようだった。目の前に広がる海は、どこまでも青く、果てがない。

 

 

 海を眺めていると、ヘミングウェイの『老人と海』を思い出す。ヘミングウェイが生前最後に発表した名作だ。

 

 

 身体の衰えを感じているベテランの猟師と、海という自然との孤独な戦いを描いている。

 

 

 私はそれを読んで、海の、あまりの大きさに愕然としたものだった。今、私の目の前に広がる海すらも、ほんの一画に過ぎないのだ。

 

 

 巨大なカジキとの激しい戦いの末に、ようやく仕留めた老人は、船にカジキを乗せて陸に帰ろうとする。

 

 

 しかし、カジキの匂いに誘われて、彼はサメに襲われるのだ。必死に戦う老人を嘲笑うように、サメたちはカジキの肉に食らいついていく。

 

 

 陸についた頃には、老人のナイフはなくなり、カジキは骨しか残らず、ただ疲労だけがあった。疲れ切った老人は慣れ親しんだ家で眠りに落ちる。

 

 

 老人は海を女性に例え、利益を求める若者は海を男性に例えるという。しかし、私は、いざ、海を前にしてみると、そんなものに収まるとは思えなかった。

 

 

 人間は自然を支配し、自分の思い通りにしようとする。私たちは人間としての考え方に囚われていて、それ以上に辿り着くことができない。

 

 

 けれど、砂浜を飲み込んでいく海を眺めていると、とてもこれは人間の手に収まるようなものではないのだと思うのだ。

 

 

 それはきっと、この先どれほど科学が発展しようとも変わらないだろう。なにせ、自然は私たちよりも遥かに長い時間を、この世界で息づいていたのだから。

 

 

 海はいろいろな姿を見せる。優しく包み込むような時もあれば、荒々しく暴れまわる時もある。その顔はどれも美しく、それでいてぞっとするほど恐ろしい。

 

 

 私の父は、今もまだ、この海のどこかにいるのだろう。あの日の海は、怒り狂い、打ち付ける高波が怒号のように叫んでいた。

 

 

 父は漁師だった。本当ならば、その日、父は帰ってくるはずだったのだ。私と母は、その時を楽しみに待っていた。

 

 

 けれど、とうとう父は、帰ってくることはなかった。二度と。母は海を見つめて涙を流し、幼い私はそんな母の横顔をきょとんとした顔で眺めていた。

 

 

 海は、その胎の中に、父を飲み込んでしまった。それ以来、私は水平線をじっと眺めていると、父の舟が浮かんでいるのを見るようになった。

 

 

 もちろん、そんなものは幻に過ぎない。けれど、今もまだ、私はどこかに父がいるような気がしてならない。

 

 

 父は自然とひとつになったのだ。海の一部となって、こうして砂浜に打ち寄せる波となり、岩にぶつかって飛沫を高く跳びはねさせているのだ。

 

 

 私はおもむろに靴を脱いで、裸足になった。砂浜のさらさらとした粒が、私の足を受け止める。

 

 

 海にそっと足をつけると、凍るような冷たさが私の爪先を包み込んだ。それはまるで、あの頃の父のようだった。

 

 

老人の孤独な戦い

 

 ときどき、どこかで舟の話し声がする。しかし、大抵の舟はじっと沈黙を守っていた。ただオールの音だけが聞こえてくる。

 

 

 老人は、今日は遠出をしようと考えていた。彼は陸の匂いをあとにして清々しい暁の匂いのたちこめる海洋へと乗り込んでいった。

 

 

 ふと見ると、水中の藻が燐光を放っている。そこは急に七百尋の深さに落ちこんでいて、潮流が急な傾斜にぶつかって生じる渦巻のため、あらゆる種類の魚がそこに集まってくるのだ。

 

 

 老人は暗黒のうちに朝の近寄る気配を感じ取っていた。沖に出ると、飛魚たちが一番の友だちだった。老人は彼らにいつも親しみを感じていた。

 

 

 老人は絶え間なくゆっくりと漕いでいた。自分の力の範囲内で漕いでいる分には、たいした努力もいらない。

 

 

 老人は力の三分の一を潮流に預けていた。そろそろ東の空が明るみ始める。気が付くと、時間の割にはかなり沖に出ていた。

 

 

 おれはここ一週間、獲物はひとつもなかった。今日は鰹やびんながが群がっているあたりに綱を降ろしてみよう。ひょっとするとその中に大物がいるかもしれないからな。彼はそう考えた。

 

 

 明るくなる前に、老人はもう餌を降ろしてしまっていた。そして潮の流れに舟の動きをすっかり任せきっていた。

 

 

 今、老人は舷側に突き出ている三本の枝の傾きをじっと見守っている。もうかなり明るい、今にも太陽が昇るだろう。

 

 

 ふと老人は空を仰ぎ見た。鳥が輪を描いて舞っている。「やつ、魚を見つけたな」彼は声に出していった。

 

 

 そのとき、綱を見守っていた老人は、あの生木の枝のひとつが、ぐっと傾くのを見てとった。

 

 

 彼は綱の方に手を伸ばし、右手の親指と人差し指でやわらかくそれをおさえた。彼は軽く綱を押さえたままでいる。

 

 

 彼は軽い注意深い引きを感じた。さらに、それより強い引きが来た。鰯の頭をどうしても外せないらしい。が、すぐに静かになった。

 

 

 彼は綱にかすかな手ごたえを感じた。いい気持ちだった。が、次の瞬間、彼は何か手ごわいものを感じた。

 

 

 信じられぬほどの重みを感じた。たしかに魚の重みだ。やつ、もう一回りしたら、飲み込むだろう。彼はそう思った。獲物が途方もない大魚であるという察しはついている。

 

 

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