この世に不思議なことなど何もない『姑獲鳥の夏』京極夏彦


姑獲鳥と書いて、「うぶめ」と読む。雨の降りしきる中、おざなりに子どもを抱いて、どこか寂しそうな表情をした女。『図画百鬼夜行』に描かれたその絵を、私はぼんやりと眺めていた。

 

なぜ姑獲鳥と書くのか、そのことがしきりに気になっていた時期があった。どうやらそれは、元は中国の妖怪であるらしい。

 

干してある赤子の服に毒の乳をかける習性を持つ妖鳥とされている。あるいは、羽を纏うと鳥になり、羽を脱ぐと女になる、とも。

 

その性質が日本の妖怪と入り混じった結果が「うぶめ」なのだ。日本における「うぶめ」は、元は「産女」と書いた。赤子を抱いて、腰から下が血に濡れた女の妖怪とされている。

 

『図画百鬼夜行』では、雨が降りしきる中、おざなりに赤子を抱いた女の様子が描かれている。どこか奇妙な表情をしているその絵は、どうにも恐ろしい妖怪を書いているとは思えない。

 

私がその絵を見たのは、一般に「京極堂シリーズ」とも「百鬼夜行」シリーズとも呼ばれる、京極夏彦先生の処女作『姑獲鳥の夏』が初めてだった。私はそこで初めて「うぶめ」という妖怪のことを知ったのだ。

 

「百鬼夜行」シリーズと冠されている通り、このシリーズには総じて、話の最初に『図画百鬼夜行』の絵が挿入されている。この作品で言うなれば「姑獲鳥」である。

 

とはいえ、物語の中に直接妖怪が登場するわけじゃない。少しばかり触れられる程度で、それどころか、作品の主要人物である京極堂はこんなことを言っている。

 

「この世に不思議なことなど何もないのだよ」

 

別段、彼は科学を信奉しているわけでもないし、非科学を嫌悪しているわけでもない。そもそも、彼が本職である古本屋の傍ら、副業としてしているのは、いわゆる「憑き物落とし」というものだ。

 

妖怪とは関係ないものの、その妖怪の特徴、たとえば「姑獲鳥」であるならば、「妊娠」や「女」が主軸となった物語が展開されていく。

 

物語は関口巽が友人の京極堂を訪ねたところから始まった。関口は知り合いから、「夫を喪った女が、ニ十箇月もの間妊娠し続けている」という話を聞いたのだ。

 

その事件は依頼として、京極堂と同じく関口の知り合いの、探偵業を営んでいる榎木津に持ち込まれる。関口はそこで思わぬ美女との出会いを果たした。

 

久遠寺涼子。ニ十箇月妊娠している女性の、姉である。関口は何か彼女のためにしてあげなければという衝動に駆られ、惑わされていった。

 

彼女の口から語られた事件。妹の失踪した夫の名は、久遠寺牧朗。旧姓は藤野牧朗という。それは、関口や京極堂、榎木津の古い友人であった。

 

私は今まで、いくらか妖怪を題材とした作品を読んできた。そんな中で、思うことがある。

 

彼ら妖怪は、たしかに人間を脅かすような、恐ろしい者もいる。けれど、それ以上に、彼らは純粋なのだということだ。徹底したルールに従い、法則を遵守する。彼らの行動には、善も悪もない。ただ現象だけがある。

 

「百鬼夜行」シリーズには、直接妖怪は出てこない。けれど、私はいくつもある妖怪ものの作品よりも、この作品が恐ろしかった。

 

妖怪は人間によって生み出される。彼らが如何に超常の力を持とうとも、人間の心というものの方が、私には恐ろしく見える。

 

私には、この『姑獲鳥の夏』こそ、そんな人間の心の奥に潜む「怪物」を表に引きずり出した作品のようにも思えるのだ。

 

うぶめ。姑獲鳥。産女。産む女。女の妄念は時として鬼よりも怖ろしい。否、般若面を見たまえ。あれは女の顔というではないか。女は怒ると鬼になるのだ。彼女たちの深い感情は、彼女たち自身を魑魅魍魎のひとつとする。

 

うぶめの絵を見ると、私はどうしてだか哀しくなる。やりきれないような、描かれた産女の表情。それがまるで、雨の中に泣いているようにも思えるのだ。

 

 

うぶめ

 

どこまでもだらだらといい加減な傾斜で続いている坂道を登り詰めたところが、目指す京極堂である。京極堂に通うようになって、もう二年が過ぎようとしている。

 

京極堂は古本屋だ。京極堂の主人は古い友人である。私は寧ろ副業の収入の方が安定しているのではないかと踏んでいるのだが、それについて彼が語ることはない。

 

主人自らが書いた『京極堂』という額をちょいと見上げ、開け放ってある戸をくぐる。主人は毎度のことながらまるで親でも亡くなったような仏頂面で和綴の本を読んでいた。

 

「よう」

 

私はおよそ挨拶とは思えない珍妙な声をあげてから、帳場の脇の椅子に腰を掛けた。

 

彼が読んでいたのは鳥山石燕という絵師が書いた『画図百器徒然袋』という江戸時代の本であった。これは売り物ではなく彼の蔵書である。

 

「それで、今日は何の話でございましょうか、関口先生」

 

「二十箇月もの間子供を身籠っていることができると思うかい?」私はおもむろに訊いた。

 

どん、どん、とどこかで太鼓の音がした。たぶん、夏祭りの練習か何かなのだろう。

 

 

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