隣から穏やかな寝息が聞こえる。まるで人形のように目を閉じて眠るルームメイトを、私は羨望を込めて見つめた。眠りたいのに、眠れない。それがこんなに辛いなんてこと、不眠症になって初めて知った。
こういう時、私はいつも電気スタンドの小さな灯りを点けて、暗闇の中で本を読むことにしている。それも、できるだけ長くて難しい本を。友人から、そうすれば眠くなると教えてもらったのだ。
それを別としても、今宵はこの時間を楽しみにしていた面もある。用意した本は、ホラー小説界の巨匠、スティーブン・キングとオーウェン・キングが書いた、『眠れる美女たち』であった。
上下巻に分かれているこの作品は、圧倒的なボリュームと登場人物の多さで圧倒してくる。だからこそ、今みたいな時間に読むには最適だった。
作中では、さまざまな人間が群像的に描かれていく。主軸となるのは女刑務所付き精神科医のクリントとその妻、警察署長のライラ。彼らの職場である警察署や女刑務所が主な舞台となっている。
それ以外にも、動物保護の仕事をしているフランク、プールの掃除人であるアントン、クリントとライラの息子、など、異なる場所での出来事が、家庭の問題、恋愛、仕事など複合して重なっていくのだ。
事件はゆっくりと、しかし着実に近づいていた。各地で、眠りに落ちた女性が目を覚まさないという事件が起こる。いつしかそれは「眠りの森の美女」になぞらえて「オーロラ病」と呼ばれるようになった。
眠りに落ちた女性は、顔や身体を得体の知れない繭のような白い物体に包まれる。それを破ると、彼女たちは獣のように襲い掛かってくる。
眠るのを必死に我慢していた女性たちだったが、「眠り」という凶悪な悪魔からは逃れられない。次々と眠りに落ちて、繭に包まれていく。
カギを握るのは、イーヴィという謎の女性。売人のトレーラーハウスを人間離れした力で壊滅させ、なぜだか初対面の人の名前や情報を知っている奇妙な女。
彼女をライラが確保し、クリントの伝手を辿って女刑務所に保護した。彼女はいったい何者か。彼らは、迫りくるオーロラ病に対抗することができるのだろうか。
一巻を読み終わって、ほうと息を吐く。やはりというか、読み応えのある文章だった。それに、ストーリーも面白かった。
「眠ってはならない」という、本能に抗うような強迫。愛していた女たちは次々と眠りの世界へと旅立ち、起こそうとすれば正気をなくした彼女たちに襲われる。取り残されていく男たちには、もう為す術はない。
眠る病気だなんて、なんて羨ましい。私は思わず自嘲したような笑みを零した。目が覚めないのだとしても、眠れるのなら眠りたいものだと、今の私は思っている。
もしも、現実に「オーロラ病」が流行したのなら、私は苦労せずとも、かなり後の方にまで残ることができるのではないだろうか。
作中にも、不眠症の女性が出てくる。私はまさに、彼女の心境に共感した。仲の良い女性が眠りに落ちていく中で、自分だけが取り残されている。自分も眠りたいのに、一向に眠くはならない。
必死に睡魔に抵抗している女たちを見て、思い出したのは、聞いたことがあるような、睡眠についての話。「いつまで起きていられるか」というギネスの記録。
しかし、その挑戦は恐ろしいものだった。人が眠らないとどうなるか。それは命にすら直結してくる。生きるうえで、眠ることはとても大切なことなのだと、その時、実感した。
ふと、目の前がうっすらとぼやけることに気が付いた。瞼が重い。自分の意識が遠のいていくのを感じる。あーあ。その瞬間を望んでいたはずなのに、私はどこか残念に思った。
もっと読みたかった。眠るために本を読んだのに、いざ眠くなるとそんなことを思ってしまう。そうこうしているうちに、私の意識は深い暗闇の底に沈んだ。おやすみなさい。
オーロラ病
イーヴィは蛾に笑いを誘われる。蛾はイーヴィの剥き出しの前腕にとまっていて、イーヴィは蛾の翅の茶色と灰色の波模様に人差し指をそっと滑らせる。
「ハロー、おしゃれさん」そう蛾に声かける。
蛾は飛び立つ。上へ……上へ……さらに上へと舞い飛んでいき、つややかな緑の葉叢にからめとられた一筋の細い光に吸い込まれて消える。
木の幹の中央にあいている黒々とした穴から赤銅色のロープが這い出てきたかと思うと、鱗状の樹皮の間を縫って進み始める。
イーヴィの蛾やそのほか一万匹の蛾は木のてっぺんからいっせいに舞い上がって、ばちばち音をたてる焦げ茶色の雲になる。
蛾の大群はうねるように空を飛び、草原の反対側にある病的な色合いをした松の二次林へ向かっていく。イーヴィは立ち上がって群れのあとを追う。
足を進めるたびに足元で音をたてて茎がへし折れ、腰までの高さに伸びた草が足の素肌をくすぐる。ほとんどの木が倒れてしまっている物悲しい森にたどりつき、初めて化学物質のにおいをとらえると、イーヴィはそれまで胸にしまっていたとは知らなかった希望を捨て去る。
イーヴィの足跡から蜘蛛の糸がこぼれるように伸び広がり、朝日にきらきらと光る。
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