フリーターが母のうつをきっかけに社会復帰『フリーター、家を買う』有川浩


 大学を卒業して就職した時、俺は会社でも上手くやれるだろうと思っていた。それがまさか、こんなことになるとは、夢にも思っていなかったのだ。

 

 

 少なくとも三年勤めろ。そう言われた中で、俺ならば大丈夫だろうと高をくくっていた。三年どころか、何年も勤め上げてやるつもりだった。

 

 

 どんなところでも俺の思い込み次第で地獄にも天国にもなる、というのが俺の考えだった。そんな俺だからこそ、どこに行ってもやっていけると思いあがっていた。

 

 

 仕事は好きじゃない。働きたいと考えたことは今まで一度もなかったが、働かなければいけないとは考えていた。

 

 

 本気で仕事に取り組む気はなかった。ただ、最低限の仕事をこなして、プライベートで好き勝手遊べばいいと考えていた。

 

 

 今から思えば、なんと甘い考えだったのだろう。だとするなら、今の俺がこうなってしまったのは、当然の成り行きなのかもしれない。

 

 

 会議を忘れて遅刻したことを境に、上司からの当たりは強くなった。なんとかしようとしても、上手くいかないことばかりだった。

 

 

 挙句には、配属された先でバイトの老人にこき使われる始末だ。怒声に怯え、余裕はなくなり、笑顔は消えていった。

 

 

 もう耐えられなかった。あの時の俺は明らかにおかしかった。俺は親からの反対を聞かずに、辞表を出して仕事を辞めた。

 

 

 その頃には、まだなんとかなると思っていたのだ。たかが一度仕事を辞めた程度。今の時代には珍しくもない。

 

 

 事実、再就職にはそこまで時間はかからなかった。常連の飲食店の店長に声をかけられて、俺はそこに勤めることになった。

 

 

 しかし、前の仕事で覚えた仕事への嫌悪が俺の中にこびりついていた。あからさまにやる気のない働き方を続け、たったの一ヶ月で仕事を辞めた。

 

 

 失業保険で食いつなぐ。けれど、その期間も終わりが近づいていた。散財のおかげで貯金はなく、もうすぐそれすらも尽きようとしている。

 

 

 そうなればどうなるのか、俺には見当もつかなかった。動かなければならないと思っていても、どうしても働く気が起きなかった。

 

 

 どうしてこんなことになってしまったのだろう。俺が『フリーター、家を買う』を読んだのは、そんな時期だった。

 

 

どん底まで落ちてもやり直せる

 

 あれから二年が経った。俺はまだフリーターだ。だが、あの頃のような絶望はもう、俺の中にはほとんど残っていない。

 

 

 あの頃に読んだ『フリーター、家を買う』は崩れそうになった俺の人生を立て直してくれた。

 

 

 物語は俺のようなダメ人間の誠治の母がうつ病にかかったことから始まる。その原因は父だったが、姉から事情を初めて知らされた誠治は愕然とする。

 

 

 それからは心を入れ替えて、誠治は母のためにお金を貯めることに決めた。近所からのいじめがうつの根本にあり、治すには家を離れなければいけなかったからだ。

 

 

 仕事をすぐに辞めた誠治は、再就職先を見つけるのに苦労することになる。高給だが、きつい肉体労働のバイトでどうにかお金を稼いでいく。

 

 

 どれだけどん底に落ちてもやり直すことができる。その物語は、そのことを俺に教えてくれた。

 

 

 とはいえ、俺は今でもダメ人間のままだ。家賃が払えなくなった俺は部屋を引き払い、実家に戻ることになった。

 

 

 バイトは母に見つけてもらったもので、自分からは探していない。そのくせ、母とは喧嘩ばかりだ。愛してはいるが、誠治ほど大切にしようとは思わない。

 

 

 だが、目指すべきところは見つけた。無茶だと思うかもしれないが、俺は本気だった。

 

 

 あの頃の俺はどこも目指してはいなかった。未来は何もなくて、だからこそ、俺は向かう方向を見失った。

 

 

 今の俺は違う。向かうべきところが見えている。他の人から見たら、俺は遊び歩いているように見えるだろう。だが、俺にとっては小さな一歩でも進んでいるのだ。

 

 

母のために社会復帰を目指す

 

 いつからこんな状態に滑り落ちたのか、武誠治ははっきりと覚えていない。そこそこの私大へ入って、そこそこの会社に就職して、その会社で修行のような新人研修に突っ込まれた。

 

 

 ここは俺の場所じゃない。おれはスタート位置を間違えた。スタート位置さえ間違わなければ、俺はもっと評価されて然るべきだった。

 

 

 居心地の悪くなった会社にしがみつくには誠治の自尊心は高すぎた。内定をくれたのはその会社だけだったのだが、親には相談せずに辞表を出した。

 

 

 父の誠一はもちろん激怒し、毎晩大喧嘩する二人の間で母の寿美子はただおろおろと青ざめていた。

 

 

 父には売り言葉に買い言葉で啖呵を切ったが、初めて就職した会社を三ヶ月で辞めた誠治に対して世間の風当たりは厳しかった。

 

 

 最初の会社を辞めたことは既に後悔していた。普通運転免許以外に何の資格も持っていない自分の条件に合う仕事など一向に見つからなかった。

 

 

 就職活動の片手間にアルバイトを始めた。貯金もいい加減底をついていたし、自分の小遣いを稼ぐ都合もあった。

 

 

 寿美子は家族三人で食卓を囲みたがったが、そうすると高確率で正位置の説教を聞く羽目になる。それが嫌で、わざとバイトのシフトを夜に入れるようになった。

 

 

 就職活動に比べてバイトは気楽でよかった。嫌なことがあればすぐ辞められるし、いくらでも代わりのバイト先は見つかる。

 

 

 今度のバイト先も辞めた。バイトをしない間は食事を二階の自分の部屋に持ってきてもらうのが通例になっている。六畳間は誠治にとって居心地のいい城だった。

 

 

 コンビニのバイトを辞めて一週間ほど経った頃だろうか。朝飯に置かれたのはカップラーメンだった。昼にはカップ焼きそばだ。

 

 

 夕飯はさすがに外の気配を窺った。トレイの上には湯気を立てた食べごろのカップラーメンが載っている。いったい何のつもりだ、母さんは。何かの嫌味のつもりか。

 

 

 怒鳴りながら階段を駆け下り、そこで脚が竦んだように止まった。ダイニングでテーブルに座って待ち受けていたのは姉の亜矢子だった。

 

 

「か……母さんは」

 

 

 亜矢子が視線で示した先には明かりを点けず真っ暗な居間があり、そのソファで寿美子が座った姿勢のまま、前後にゆらゆら揺れながら、しきりに手を揉んでいた。

 

 

 一目で尋常ではないことがわかる状態だった。ずっと何かをぶつぶつ呟いている、その内容に耳を澄ませて総毛立った。

 

 

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい早くいなくならないといけないのに今日もできませんでしたごめんなさい」

 

 

 どこで息継ぎをしているかもわからない小さな声で、寿美子はずっとそう呟いていたのだ。

 

 

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