その声は誰にも届かないのか『52ヘルツのクジラたち』町田そのこ


クジラたちは同じ周波数の鳴き声で互いにコミュニケーションをとっている。でも、一匹だけ。52ヘルツという高い周波数のクジラがいる。彼の声は、誰にも届かない。孤独なクジラ。

 

まるで歌うような、もの悲しい声。私がその存在を知ったのは、一冊の物語を読んだのがきっかけだった。町田そのこ先生の作品。『52ヘルツのクジラたち』。

 

小さな田舎町に引っ越してきた貴湖は、ひとりの少年と出会う。言葉を失ってしまった彼に、貴湖は、彼もまた、自分と同じ苦しみを抱えているのだと感じる。

 

実は、貴湖は長年、親から虐待を受けてきたことで心に傷を負ってしまっていた。そして、この少年もまた、親から虐待を受けているのではないかと推測をする。

 

少年をどうにか救おうとする貴湖だったが、彼女の前には、さまざまな現実の壁が立ちはだかった。それでも、誰にも届かなかった少年の叫びを、彼女は必死に受け取ろうとする。

 

「52ヘルツのクジラ」の話は、この作品の中に出てきた。調べてみたら、実在するという。そこでお試し半分で聞いてみたら、そのもの哀しさに囚われてしまった。

 

そのクジラは、未だ姿すら確認されていない。しかし、52ヘルツという周波数を持っているのはそのクジラ一頭だけという。つまり、彼は正真正銘、孤独なのだ。

 

けれど、私はつい、人間と重ねてしまう。そして、やりきれなさに胸が苦しくなってしまうのだ。誰にも理解されない孤独。それは何も、クジラに限った話ではない。

 

私たちは何気なく言葉を話して会話している。でも、同じ言葉を話しているはずなのに、通じないと感じたことは、一度や二度ばかりではない。

 

私たちはいつも、自分に都合のいい言葉だけを受け取っている。彼らは「群れの仲間」で、互いにテレビ番組の話や、恋の話で盛り上がっている。

 

でも、その一方で、いじめられている子があげる悲鳴は聞こえていないのだ。「助けて」というその言葉を、受け取る人は誰もいない。

 

『52ヘルツのクジラたち』は親に虐待された子どもを軸に描いている。でも、きっと、「助けて」という声を上げるクジラたちは、もっとたくさんいる。

 

いじめられっ子、DV被害を受ける母親、虐待される子どもたち、社会に馴染めない若者、差別を受けている人たち、彼らの「助けて」という声は、聞こえないだけで、そこら中に溢れている。

 

聞こうとしないと、聞こえないのだ。楽しそうな声ばかり、自分が聞きたいものばかり、大きくて多い声ばかりを聞いていたら、その小さくて力弱い声は、聞き逃してしまう。

 

だから、ほら、耳を澄まして。彼らの声を、52ヘルツの声を。彼らの孤独に、寄りそってあげたいと思う。もの悲しい声なんて上げなくてもいいように。

 

周波数が合わないのなら、自分が合わせてあげればいい。そんなことができるような人間になりたいと、その時、私は強く願ったんだ。

 

 

孤独なクジラ

 

明日の天気を訊くような軽い感じで、風俗やってたの? と言われた。一瞬だけ言葉の意味が分からなくてきょとんとし、それからはっと気付いて、反射的に男の鼻っ柱めがけて平手打ちした。

 

失礼なことを言ってきた男は、わたしが家の修繕をお願いした業者で村中という。村中の部かが慌てる。それからわたしにぺこぺこと頭を下げた。

 

「ばあさんたちがきっとそうだって騒いでるから、否定してやろうと思って」

 

辛抱強く村中の話を聞くと、どうやらわたしはこの周辺の住人の間で、東京から逃げて来た風俗嬢という話になっているのだという。

 

わたしがここに越してきて、三週間ぐらいだろうか。近所にあるコンドウマートくらいしか出かけていないのに、一体どこで目について噂にまでなったのか。村中に訊くと、どうもそのコンドウマートであるらしい。

 

「訳ありの雰囲気だし、働く様子はないのに金は持ってそうだし、これはきっとそうに違いないってばあさんたちが勝手な憶測をして盛り上がってるんだ」

 

だから訊いたんだ、としょんぼりという顔を見つめながら、面倒臭いなあと思う。説明をしながら、だんだん腹が立ってくる。なんでわざわざ、こんな説明をしなきゃならないんだ。

 

「床直したら、さっさと帰って。十八時まで出てるから」

 

もう、一緒の空間にいたくない。立ち上がり、メッセンジャーバッグを掴んだ。

 

あの家で、静かに暮らすつもりで越してきた。ひとりでそっと生きていきたかった。そのために、あの家を手に入れたのだ。なのに、まさかこんなふうに土足で踏み込んでくる人間がいるなんて。

 

バッグを開き、中からMP3プレーヤーを取り出した。イヤホンを耳に押し込み、電源を入れる。目を閉じて、耳を澄ます。遠く深いところからの歌声が、鼓膜を揺らす。泣いているような、呼びかけているような声。

 

聴きながら、アンさんを思い出す。アンさんだったら、笑うだろうな。想像するだけで、胸の奥が温かくなる。でも、アンさんはもういない。

 

 

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